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終戦

量・質ともにアメリカに負けたころから、燃料供給の道が閉ざされ、本土空爆に対して十分な迎撃もできず、日本は敗戦の一途を歩みます。

「B29が一般住民に戦意を喪失させるため大量にビラを空中撒布した。八尾では西風に乗って高安山麓に達し、相当の数が拾われた証言がある。ビラを手にした子供たちは、B5版大か一周り小さい形で桃色・水色・黄色・緑色の紙に日本語の漢字まじりで平仮名文で書かれていたとしているが、親から日ごろこれに触れると爆発すると教わっており、内容は読まずに警察に届けたという。」『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)

このビラ配布は、私も親から聞いて知っていました。一般市民には、それほど影響を与えなかったようですが、負け戦を隠してきた日本軍幹部にとっては大きな影響を与えたと思われます。

「終戦前日に、当時日本最大規模の兵器工場であった大阪造兵廠に700トン近い爆弾が投下され、徹底的に壊滅させられた。工場の建坪12万坪という広大な建物が鉄とコンクリートとレンガの残骸となり、スクラップの廃墟となった。」『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)

翌日、天皇陛下の玉音放送があり、国民は日本が戦争に負けたことを知ります。戦争に負けたことによる恐怖感よりも、張りつめた気持ちがゆるんでホッとしたという話も聞きました。「敗戦」というより、「終戦」というのが実感だったようです。

外地の戦争で疲れ切った兵士たちが続々と帰郷してきます。家もなくなって身寄りを頼って居候した人もあります。貧しさの中でそうした人々を受け入れながら、日本は復興への道を歩み始めます。危険な軍隊の解体をさせましたが、無条件降伏をさせながら、一般市民に対しては、?なんら害を及ぼすような仕打ちはしていません。「なんじの敵を愛せよ。」といったキリスト教の教えが行き届いていたのでしょうか。

人々は戦時訓練によって培った力を復興の力に変えて頑張りました。その結果日本は世界が目を見張るほどの復興を遂げました。敗戦は日本を守るための神風ではなかったのかと思うほどです。

終戦から70年、いま日本も、景気が急速に悪化して回復の見通しはありません。しかし、この戦争のことを振り返る今、明らかに終戦前より、はるかに恵まれています。「がんばれ。」と当時の人たちがいってくれているような気がします。

第二次世界大戦大阪空襲

戦地に赴いて無くなった人、負傷して戻ってきたが、寿命を早めた人、爆弾の破片があたって、手足や、目が不自由なまま、生涯を送った人、みじかにがんばっていたこのような戦争による障害者の人たちも、いまは、ほとんどが亡くなってしまいました。戦後70年、当時20歳の人でも90歳です。戦争体験者がほとんどいなくなるこの時期に、戦争を振り返って、知らない人たちに伝えようとテレビでもたびたび番組が組まれています。

「日常の中の戦闘遺跡」(大西進著)に、詳しい空爆の記録がかかれています。

戦争が外地で行われていたときは、内地は不自由な生活だけで恐怖におののくようなことはありませんでしたが、昭和17年東京の空襲があり、昭和19年、12月には、大阪で初空襲がありました。翌20年になると連日のように空襲があり、日米間の戦闘能力に格差がついてきて、軍事工場が破壊され、敵機迎撃の有力基地の大正飛行場でも、反撃戦闘はできなくなっていきました。避難、退去しか方法はありませんでした。

昭和20年2月になると、B29による重点目的攻撃から、大都市への焼夷弾の無差別爆撃に移り、また、航空母艦から発進する2000機もの艦載機の大集団が重要施設を襲い始めたと書かれています。昭和20年3月13日深夜から未明にかけての第一次大阪大空襲があり、当時恩智の小高い地域から、親とともにこの様子を見た幼い子供たちは、花火のようにきれいだったという記憶をもっています。このとき、この無差別焼夷弾爆撃で、大阪中心部の19区はほとんど焼失しました。私は東京の壊滅的な焼失は聞いていましたが、大阪は軍需工場だけだと思っていました。親戚を頼って恩智の村にも、すすで真っ黒になったひとたちが大勢やってきたという話はそのことだったのですね。

大阪市内も全滅ではなく、一部残った地域の様子が最近テレビで映されていましたが、駄菓子屋などが残った昔の家並みでした。戦後の復興の速さは、壊滅状態から始まったためだったのですね。終戦が半年早ければ、30万人の命が助かったのにと悔やまれていますが、一方では半年遅かった終戦が復興を早めたのですね。

いまの八尾空港はローカルな空港でそのイメージから、戦時中もそうであったように思っていましたが、その当時の八尾空港(大正飛行場)は東洋一の航空基地で、爆弾攻撃の目標になっていたのですね。関連施設、軍需工場、鉄道、周辺住宅などには機銃掃射による攻撃を受けたそうです。

この本に、紹介されていた恩智の防空壕の話を読んで、現在の大畑山会館の前に、ブドウ畑であったところに防空壕がつくられ、家を失った浮浪者が住んでいて、戦後その中で無くなっていたという話があります。私は古墳の間違いだと思っていたら、本当に防空壕だったかもしれないのですね。私が子供のころ、他の場所で見た防空壕も、古墳の学習をしているときに古墳を見間違えていたのだろうと考えましたが、やはり古墳ではなくて実際には防空壕だったようです。いまは壊されていて、その場所も特定できません。