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戦国時代・河内国のキリスト教②東大阪市・四條畷市・大東市・八尾市

戦国時代の河内国のキリスト教の状況は以下の資料でわかります。

「若江の城主シメアン・イケピダフンゴ(池田丹後)殿にして、信長の大に寵せる人なり。(中略)シメアン池田丹後守と称し、河内国の若江という大なる城の武将なる高貴の武士なり。同所には昨年好き会堂を建設せり。同城には彼の他に異教の武士数人守備に当たり、中一人はキリシタンの大敵なりしが故に、彼はその欲する所を得ず。と記している。

フロイスの他にも若江城と池田丹後守のこと、それに河内各地のキリシタン城主のことを記した書簡がある。天正10年(1582)に長崎についたバードレ、ガスパル=クレリヨは、耶蘇会総会長に宛てた書簡で、

岡山の領主は、この地に甚だ宏大にして壮麗なる聖堂を立て、またジョルジの尽力によってバードレたちの居住に便利な家を建てた。この地から1レグワ(約4キロ)に三箇と称する小さい島があり、領主は配下の人たちと共にキリシタンであって総数は1500人である。この島は大なる湖水の中央に在って、甚だ美しい堅固な地である。…この島から2レグワ(約8キロ)の所に、シメアン丹後殿と称する領主があって、前の両人は彼に隷属している。河内国は2つに分かれ、その一つは異教徒の領主に属しており、丹後殿はその一人で、その女は岡山の城主ジョアンに嫁している。シメアンは甚だ勇猛な将軍で、徳高く、領内の者を皆キリシタンとする熱心をもっているが、他の2人の領主とこの地を治めている故、望み通りにすることができない。

というように、当地の河内国の状況を詳しく述べている。岡山(四條畷市)・三箇(大東市)の城主がキリシタンであり、領民の中に多数のキリスト教信者がいたことを伝えている。当時の河内にはこの他に、砂・飯盛(四條畷市・八尾(八尾市))・烏帽子形(河内長野市)にもキリシタン大名がいた。

実質的に若江城主であった池田丹後守はここに教会を建て、ジョアン・フランシスコの書簡によると、天正5年(1577)五月の聖体節には多くの人が集まり、一基の十字架が新たに立てられ、809人の人が洗礼を受けた。『東大阪の歴史』(藤井直正著)

同書によると、若江城は、1578年9月、織田信長が泊まった記録がありますが、」1581年のフロイスの書簡には、若江城はすでに無くなって池田丹後守は八尾城に移っていることが書かれています。その間3年ほどのあいだにどのような経緯で若江城がなくなったかは分かっていないそうです。

このころの河内は河内湖があったので、「湖水」とか「島」がでてきています。

この時代にキリスト教が受け入れられたのはなぜでしょうか。華々しい建物を持った仏教はどのような状況にあったのでしょうか。神道は?

戦国時代・河内国のキリスト教①・クリスマス

恩智のルーテル教会の前を通ると、日曜礼拝の講話が「マリアに下った予言」と書いてありました。どんな話なのかなと思っていたら、クリシュチャンの知人に『クリスマス物語』(発行・いのちのことばEHC)をいただきました。つぎのように書かれていました。

ガブリエルはマリヤに声をかけました。「おめでとう、恵まれた女(ひと)よ。神がともにおられます。」これを聞いたマリヤは、すっかり戸惑い、このあいさつは、いったいどういう意味なのかと考え込んでしまいました。すると天使が言いました。「こわがらなくてもいいのです、マリヤ。神様があなたにすばらしいことをしてくださるのです。あなたはみもごって、男の子を産みます。その子をイエスと名づけなさい。彼は非常に偉大な人になり、神の子と呼ばれます。神はその子に先祖ダビデの王座をお与えになります。彼は永遠にイスラエルを治め、その国はいつまでも続くのです。」

マリヤは尋ねました。「どうして私に子どもができましょう。まだ結婚もしておりませんのに。」

「聖霊があなたに下り、神の力があなたをおおうのです。ですから、生まれてくる子供は聖なるもの、神の子と呼ばれます。」以下省略(新薬聖書・ルカの福音書1章26~38節)

クリスマスは今の日本では、宗教を超えてお祝いの日になっていて、日本でも、この日は会社も忘年会などはしないで、家にかえって祝います。宗教的意味も忘れがちですが、人の心が人類をつくった神から離れるようになったときに、神が神の子を人類に送ってこられたのですね。その日をクリスチャンは祝ったのですね。その最初のキリスト教の宣教師は、戦国時代に来日されました。

1549年耶蘇会イエズス会)の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日して、山口の大内義隆、大分の大友宗麟ら、各地の戦国大名が信者となって手厚い保護をうけました。河内でもキリシタン大名がいました。

織田信長は、信者ではなかったが保護しました。しかし、豊臣秀吉は禁止をして、以来江戸時代は徹底して、キリスト教を排除したので、その影響を受けて、昭和初期まで耶蘇信者は結婚の障害になるほどでした。

恩智神社の創建はいつ?

「恩智神社大造営までのあゆみ」(恩智神社造営県世知委員会編纂)によると、恩智神社創建は21代雄略天皇3年とされていますが、この根拠となった資料があるはずです。機会があれば聞いてみましょう。

「住吉神社神代記」によると、14代仲哀天皇の妃、神功皇后の時に恩智神社がすでにあったということですから、もっと古くから存在したはずです。古事記、日本書紀の年代が、対、大陸王朝に対抗して、日本王朝を古い存在に見せようとして、年代を実年代より古く移行したことがわかっています。

神功皇后の年代は3世紀になっていますが、実年代は、高句麗好大王(広開王)の碑や、七支刀(奈良県石上神宮神宝)の銘文、および朝鮮半島で編纂された「三国史記」などから4世紀末頃とみられています。それでも、雄略天皇の5世紀よりもかなり前になります。

しかし、これらの史実によるものとは別に、恩智神社の前身なる神社はもっと古くから存在した可能性もあります。私は学者ではありませんので、自由に想像して、河内湾に面した時代に、船戸の大神を祀っていたかもしれませんし、恩智は縄文・弥生時代から存在していますから少なくとも、稲作にかかわる神の稲荷神社として祀っていた筈だと思っています。

そして、「日本の起源・神社」(2015年10月6日)で紹介したように、失われた十支族までさかのぼってイスラエルの神にまでたどり着くのも楽しいではありませんか。

琴・三韓征伐・恩智神社

大阪府立弥生文化博物館での講義を聞いてきたと、退職後30年を考古学に没頭してこられた馬場寛さんより電話を頂きました。「これからは、高安の地域が重要だ。生駒神奈備山が重要だ。恩智神社のことを知っているか。」と聞かれたので、

「神功皇后の三韓征伐の際、前は住吉大神、後ろは恩智大明神が守って勝利を得ることができた。その功労を讃えて、恩智神社は高安の七郷を賜った。その後、玉祖神社が山口からやってきたとき、恩智以外を玉祖神社に譲った。」というような話を伝えると、手元の資料と同じだといわれて、突然、富木(とのき)(阪和線富木駅近く)の話をされました。

「富木川の西岸に巨大な楠木があって、16代仁徳天皇が、これを利用して舟を作った。朝日を受ければ影が淡路島に届き、夕日を受ければ影が高安山を越えるほどの大木だったという。この木を倒して舟をつくると、素晴らしい快速船が出来上がり、「枯野」と名付けた。その「枯野」が廃船になると、材木にして火を起こして塩を焼いた。そして、焼け残りで琴を作ると、その音は七里に響き渡ったという。」

馬場さんは舟を作ったことより、琴を作ったことが大事だとおっしゃったのですが、その理由を終に話さず、お年寄り特有の脱線話に終始されました。まだ若い私でもそうですから、90歳ですから仕方がありません。それにしても、まだ研究意欲充分でお元気な方です。

三韓征伐は、仲哀天皇が琴を弾き、神が神功皇后にのりつき、武内宿禰が審神者を務めて、その神託で行われた。このように、重大な政リごとは、神託によって行われた時代ですから、その道具である「琴」の方が、「舟」より大事であったのでしょう。

富木の大木でできた舟の廃材で作った、七里まで響いたという琴でどんな神託があったのか知りたいですね。

第2次世界大戦・高安村の生活事情

それでは、日々の生活はどうしていたのでしょう。働き盛りの男手を戦争にとられて、女性や、親戚などの年寄の男性の応援で畑仕事をしたようです。そのうえ、戦地でマラリヤにかかり、骨と皮になって帰ってきて高熱、下痢を繰り返す身内の面倒を見たり、負傷して帰ってきて寝ているだけの者の面倒を見たりして、余裕のない軍を支援したようです。私の母などは戦争とは直接関係ないのですが、当時、不治の病であった肺病の義母の世話もしながら畑仕事をしていたといっています。

村から女子青年団で、金岡病院まで負傷軍人お見舞いにいったこともあったといいます。行くのが怖かったのですが、行ってみると地元の知り合いが勤務していてホットしたそうです。

通称、「赤紙」と呼ばれた召集令状が届くと、入隊しなければなりません。川崎さんは、無事帰還できるようにと、まじないのつもりで裏口から出たそうです。その日は日の丸の旗を立てました。地元から召集の人が出ていく日は恩智駅に婦人会が集まり、日の丸の旗を持ってばんざいといって、見送りました。

入隊した兵隊が戦地に赴く時は、「メンコイアスタツ」という電報が届きました。軍刀を持ってこいというので、上六の闇市で軍刀を入手して広島の隊まで届たそうです。前線に出ていく軍人に、軍で軍刀を準備する余力もなくなっていたのですね。汽車は軍人ばかりで民間人の乗車客はなく、肩身のせまい思いだったといいます。広島では営内には入れてもらえず、食事をする店もなく、百貨店の食堂で会ってお別れをしたといいます。

地元では、婦人会で、日の丸の旗を持って恩智神社にお参りして、先勝と無事の帰還をお祈りしました。

また、大阪の爆撃が始まると、黒い布で電球を覆う灯火管制が始まり、残された人々にも危険が迫ってきました。

私が子供のころ、親から聞かされていた話とほぼ同じです。

 

第2次世界大戦・高安村の食糧事情

同級生の川崎君のお母さん(92歳)に恩智の昔、80年くらい前の出来事を聞かせていただきました。教興寺村で育たれて、恩智に嫁いでこられました。1904年の日露戦争で戦われた怖い(子供心にそのように映った?)おじいさんがおられたそうです。その教興寺から恩智の小学校に通われる途中、垣内村に警察署があって、留置所もあったそうです。そこを通るのがこわかったとそうです。いまは、市民を保護してくれる場所というイメージがありますが、当時は警察は怖い存在だったようです。今とは違って、当時の子供には、怖い存在がいっぱいあったのですね。

1941年(昭和16年)12月、第2次世界大戦が始まります。川崎さんは18歳ですね。当時は、憲兵は警察より、怖い存在だったようです。裁判もせず直接処分することも多かったので、逆らえば何をされるかわかりません。戦争批判をする者や、統制違反を取り締まっていたそうです。

統制配給は、物資の絶対的な不足の下で行われていたので、生きていくためには闇取引が必要でした。不正のできない立場にある裁判官などは、食糧不足で死んでしまったと父から聞いています。

恩智には、大阪から、米を入手するために、着物や砂糖を持ってぶつぶつ交換に来たそうです。

地元の人は、じゃがいも、どろいも、赤いも、人参などを炊いたものが中心で、麦を「からす」で踏んで精米して主食にしていました。からすで踏むのは、学校へ行くまでの子供の仕事でした。漬物は大根を4斗樽8杯漬けて、山盛に刻んで1年食べたそうです。よっぽどこの麦飯が嫌だったのか、数十年前に、美家古でヘルシー弁当に麦飯を入れたら、年配の方から御叱りを受けたのを覚えています。