月別アーカイブ: 2016年1月

大字恩智・立原池・防災

自由時間2時間が出来たので、前から行きたいと思っていた立原池に行くことにしました。地図で場所を確認して、だいたいの位置が分かっているので一人で行こうとしましたが、同級生の大畑君とよく知っているHさんと3人で行く約束をしていたので、大畑君に電話しました。

台風だといえば、水利委員長が八尾市からの電話でこの池を見にいっていたので私も一度見ておこうと思っていたのですが、大畑君も防災の重要地点として確認しておきたかったようです。

運動のためにときどき歩く山道の中信貴道から数百メートルの場所なので、そのコースで行くことにしました。大畑君は国土地理院の等高線が入った地図を持ってきてくれました。

柏原市の斎場のすぐ近くというわかりやすい場所なのですが、関電道路から入る道が草木で覆われた山道なので地図と何度も確認しながら道を選びました。

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すぐに立原池は見つかりましたが、これは農業中心の地域だった時代には恩智の大切な溜池だったのですね。帰りの道は立原道を下るか、もとの中信貴街道に戻るかの選択をすることになりました。大畑君は、探検家のブログに立原道は谷の中を歩く険しい道だと書いてあったといいます。中信貴道を上る時に、役行者や、空海の山の修行の話をしていたので、その厳しい道を選びました。

谷の横に道らしきものがありましたが、そこで谷底まで滑り落ちると大けがをするので谷底を歩くことにしました。

「修験者たちは、岩や木と通じ合いながら行動するんだ」と、細心の注意を払うことを促しながら、ぐらつく石の上を渡っていきました。子どものときはこんな道を何とも思わないで走り回っていたのですが、足腰が思うように動かなくなってきている二人ですから、慎重に行動しました。危険を感じながらの行動は気を十分に木や岩に通しながら進んで、修験者を体験しました。

恩智神社の一の橋谷に繋がるこの谷には2か所砂防ダムがありますが、以前に見たときはいずれも土砂で埋まっていましたが、今回は土砂は除去されていました。大畑君は安堵したようです。

 

東大阪市六万寺・地蔵谷川水車

『郷土史六萬寺』より紹介します。

「日本の水車は早くから灌漑用以外に、精殻そのほかの動力として使用されてきた。また、近世以前から精米・製粉・揚水など、農業や時給的なものに使われてきた。生駒山西麓の水車を工業に利用するようになったのは、近世にはいってからである。

生駒山西麓の旧枚岡地域には、東谷、日下谷(南・北)、辻子谷、額田谷、豊浦谷、客坊谷、鳴川谷(地蔵谷)の7谷があり、各谷ごとに水車があった。水車は近世中期以降に設置されたものと思われるが、額田谷の水車に関しては、1739年の記録資料があるといわれている。」

この本では、六万寺村と四条村の水車設置のトラブルが紹介されています。水車の設置を申請したら、土地問題まで発展して示談にいたるまでの経過が紹介されています。水車の設置は水の問題が絡んでいるいるし、税金もかかり、設置には奉行の許可が必要だったようです。増税も行われて稼ぎが引き合わないと陳情もしたようです。

 

十二社権現寺

『郷土史六萬寺』より紹介します。

「生駒山も枚岡の山深いところにある十二社権現寺(現六万寺町1丁目)は、「楠の守神として、権現の森ばかし」といわれている。わが国においては、熊野三山の本宮に歓請し、奉祀された十二社の権現が、いにしえより有名で、十二社権現、または熊野権現と呼ばれているものがこれである。

村上天皇の御代応和3年(963)7月に、竜穴、火雷、水主、木島、乙訓、座摩、枚岡、恩智、広田、生田、長田、垂水の12社を、祈雨の12社と定められた由緒の地である。

正平年間(1346~1369)四條畷の戦いに楠木正行が六萬寺往生院を陣とし、高師直と闘い討ち死にするまでの間、十二社権現を守護神として当所に合祀した。」

八尾市恩智・志紀・弓削道鏡

恩智から、JR志紀駅に向かう途中で、いま弓削道鏡に関わる発掘調査が行われています。弓削の道鏡はこのあたり、恩智に近い東弓削で生まれ育ちました。道鏡というのはこのあたりではその名を口にしたがらない戦前の教育がありました。あるブログによれば戦前教育で戦前の皇国史観で3大悪人といえば、後醍醐天皇に逆らった足利尊氏、東国で親王を名乗った平の将門と、称徳天皇を呪術で拐かした道鏡というのが常識になっていたそうです。当時の小学校の歴史では「日本の悪人を記せ」という問題に道鏡と書くと二重丸がもらえたそうです。

私が年輩者から聞いた道鏡は、「女帝を巨根でかどわかし、天皇になろうとしたとんでもない坊主」という評価でした。戦前、軍隊で弓削出身だという理由だけで上司に殴られたという話があるほど、道鏡は長い歴史の中で常に悪人に仕立てあげらてきたのです。常に対立する戦いの勝者が歴史を書き換えていくのは世の常識ですが、ここまで悪人に仕上げなければならないほど当時その影響力をもった道鏡とはどういう人物だったのでしょう。

この時代の社会は?

天皇家を取り巻く状況は?

 

審神者・琴・神託

三韓征伐は、仲哀天皇が琴を弾を弾き、神が神功皇后にのりつき、武内宿禰が審神者を務めて、その神託で行われた。このように、重大な政リごとは、神託によって行われた。

なぜ琴なのか分からなかったのですが、祈祷のことを調べているうちに、『呪術の本』に次にように書かれていたので紹介します。

東北の口寄せの巫女の呪具は、弟子が修行と通過儀礼を経て一人前のイタコ(オカミサンなどとともいう)になったとき、師匠から授けられる。中身は扇・弓・杖・数珠だが、最も重要なのは弓で、口寄せで降神するときに鳴らして、トランス状態(神憑り)に入るのに使う。

中世伊勢の神道書『御鎮座本紀』には、アメノウズメ命が天香具弓を並べて叩いたのが琴の始まりとある。琴は神功皇后が神憑りに用いたとされる古来からの降神の呪具だが琴と同様の機能を弓が果たしているのである。」

恩智神社の宮司さんに今でも神社で琴を用いることがありますかとお聞きしたら、「さあ、聞いたことはないなあ。」とおっしゃっていました。

弓にしろ琴にしろ、それは振動です。真言を唱えるのも振動です。宇宙の全てが振動によって成り立っていることが最近の科学でわかってきました。目に見えない存在との交流が振動によって可能なのは当然ですが、人間と目に見えない存在との間で声や、弦の振動がちょうどいいのですね。

神社の知識(祭)

『郷土史六万寺』に祭のことが詳しく述べらていたので抜粋して紹介します。

「祭祀の語は、「まつり」の意味に使用され、その用法は古く『大宝律令』にも見えているが、、「祭」という漢字は、夕(肉の意)と、又(右手の意)と示(神前に置く机の形を示し、神の意)から成り立っていて、右手に肉をもって神に捧げる意味であり、「祀」は示(神)に巳(シという音符)をつけた字で、祭・祀のいずれも漢語で神をまつることを意味するものであるから、わが国のマツリにもこの語を用いたのである。この祭祀は、同じく漢語で神事とも言い、またその儀礼方面を主として見る時には、祭儀・祭典・祭礼などとも言うが、わが国語ではマツリ・マチと称し、古くはヨグ・イハフ(イワフ)とも言っていた。

マツリの語については、本居宣長は『古事記伝』に祭事(まつりごと)は政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うのも、本は同じである」と説いている。

(中略)

以上を総合して考えると、マツリとは人が神様を招き鎮め、不浄を避け慎んでおそば近くにかしづき、ご接待申し上げることである。この祭りの精神とは、我々の民族の祖神・祖先に感謝のまごころをささげて拝むことが第一で、それは皆が神の御心にかなうように、清く明るく直(なお)く正しく、和合してくらしに励み、よりよい社会生活を築くことが大切である。」

一月11日に紹介した森田政次郎さんが、「先祖崇拝で墓に詣るように、それぞれの地区にある氏神様も祀ることを怠ってはならぬ。氏神様は地区開拓の創始者、先祖である。」とおっしゃっていたように、氏神さんは地域の祖先なのですね。そのおかげで私たちはこの地域での生活ができているのですね。

『郷土史六万寺』はさらに次のように書いています。

「神社は全国にあって、それぞれの地域の人々(氏子)によってお祭が営まれている。氏神様である神社は、本来、地域全体が共同でお祭りをすることに意義があるので、一つの町や村を単位として存在する。こう見てくると、神社とは、その地域の人々全員が共同でお祭りをすることに意義があるので、ひとつの街や村を単位として存在する。こう見てくると、神社とは、その地域の人々全員がこぞって祖神と天地自然の恩恵に感謝し、お互いの幸せを祈り合ってきた共同の祈願の場所である。

祈りの本質は、祭りを行うことによって人々が清められることにある。祭りは、清新溌剌(はつらつ)たる元気をもたらす。この祭りを年々歳々繰り返すことによって、地域社会の生命は常に清新な状態に立ち返ることができるのである。」

キーワードは、「地域の祖神」と「天地自然の恩恵」「お互いの幸せ」「地域社会の生命」「共同の祈願の場所」ということになりますね。

宇宙大自然のその地域で暮らす生命・人々が天災・疫病・飢饉などから守られた暮らしができ、ともに助け合いながら暮らしていけるように、清めるための行いが「祭」なのですね。神社はその共同の祈願の場所ということになります。

 

 

 

 

 

神社の知識(式内社・官幣社・国弊社)

神社の由緒書に「式内社」と書かれているのをはじめて見たときは何のことだろうと思いました。知らない人も多いので紹介しておきます。

「式内社」とは、延喜式に登載されている神社という意味で、少なくとも千年以上の古社ですから格式の高い神社ということになります。

『延喜式』というのは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)のことで、『延喜式神名帳』はその、巻、九・十の事で、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧です。

『郷土史六万寺』から抜粋して紹介します。

「延喜式神名帳」に記載されている式内社は五畿七道(注:当時の広域地方行政区画)を通じて3132座、2861社である。座は祭神の数、社は神社の数である。一座を一前ともいい、一社を一処ともいう。式内社には、京都の神祇官から直接幣物を受ける官幣社737座と各国の国府から幣物を受ける国幣社2395座の2種類があるが五畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の式内社はことごとく官幣社であり七道諸国の式内社はとくに朝廷の尊崇の篤い神社を除くほかは、みな国幣社である。官・国幣社共に座格によって大小の二社に分かれ大座492座と小座2640座である。」

官幣社や国弊社というのは、お祭りのときに中央から幣物をもらっていたのですね。

孔舎衙(くさか)の戦い・日本書紀・母木邑

先に紹介した「孔舎衙之戦」は恩智の歴史にも残っています。神武天皇が孔舎衙之戦に敗れ、恩智の天王の森に逃げ込んで命拾いした話です。

歴史が好きだったという同級生の大畑逸造君が日本書紀の資料を届けてくれました。

以前に紹介した「天王の森」「恩地」「母の木(オモノキ)」の由来は地元の人にとっては、重要な歴史であるようです。熱っぽく話してくれました。

日本書紀 巻第三の一

「初め孔舎衙之戦に、人ありて大きなる樹に於いて隠れて難を免がるるを得、仍りてその木を指して曰く。『恩、母の如し。』 時人、因りて其の地を名づけて、母木邑と曰う。」

恩地、、母木村という地名がはっきりと残っているのだから、これはこの恩智に間違いないと大畑君はいいます。

「東大阪市豊浦町という説は間違っている。聖徳太子もこの樹を探して天王の森にきたが、その時はすでにその木はなかったという話もある。残りの樹の株で十一面観世音菩薩を刻ませた。それが、恩智神社の横にある感應寺の重要文化財の仏像だ。それなのに、インタネットで、恩地とは、このあたりに住んでいた渡来人「あち」氏がなまったものと紹介されているのは許せない。」といっています。

 

東大阪市・梶無神社・孔舎衙之戦

河内には、神武天皇に関する伝説が多数あります。その一つが恩智天王の森の母木の話ですが、今回はその前の話です。『郷土史六萬寺』より紹介します。

神武天皇の東征は、浪速の津より高津の岬をめぐり河内の内海(当時は今の東大阪日下のあたりまで海だった)に水軍を進めた。『布施市史』には次のように書いています。

「この日にわかに空曇り強風つのり遂に盤船はことごとく舵を失い激浪に流され、或る島陰に彼らの船は漂着し、さしもの激浪もいつしかないでいた。(後日この地にかじなしのみやしろを祀れるはこの危機の救われたことによる)」

神武天皇はを中心とする九州の勢力(のちの大和朝廷)は、にぎはやひのみことの東征のあとを受けて畿内に進出しようとしました。瀬戸内海を通り、河内国草香村の白肩の津に至りました。生駒おろしにより浪高く御船は難航に難航を続け、ついに舵を折られて航行の自由を失うに至り、難破の危機に立ち至られました。神武天皇は、祖神の加護を求め祈願を籠られました。

すると、強風も鎮まり波も穏やかになって、布巾の丘に御船をつけ上陸することが出来ました。

神武天皇は祖神のご加護を深く歓ばれ、その上陸した処へ、祖神の瓊瓊杵尊と此花開耶姫命を祭神として祠を立て、神々に感謝されました。この祠が後年梶無神社となったといわれています。」

草香に上陸した神武軍は、はじめ生駒山地の南の信貴山南山麓立田越えで、奈良盆地への侵攻を試みますが、その道は狭く険しいので引き返します。

次に生駒山の北を超えて侵攻しようとしますが、孔舎衙之(くさえのさか)で応戦した長すね彦に敗れます。このとき、兄の五瀬はすねに矢傷を受け、のち熊野灘で亡くなります。

 

 

 

 

八尾市六万寺・河内往生院

『郷土史六万寺』より紹介します。

「平安時代中期ごろより、現世が破滅して末法の世が到来するという思想が広く流布した。おりしも飢餓や天災、疫病、戦乱が頻繁におこり、不安が当時の人々の間に広がっていった。

末法思想というのは、正法、像法、末法という三時期の法が存在するという思想が仏教にある。釈迦の入滅後千年は正しい教えが行われ、証果があるという正法である。

次の千年は教えは存在するが、信仰が次第に形式に流れ、真実の修行が行われず、証果を得るものがないという像法で、次の時代には、仏の教えがすたれ、教法のみが残る末法の世となるというものである。

日本では永承7年(1052)に末法の時代に入ったとされ、当時の人々は仏教が生活の規範となっていたので、現世より来世、極楽浄土へ望みを託す一途な思いが広がっていった。」

浄土三部経のひとつ観無量寿経は、修行の過程を16段階に解いている。16段階の過程を16想観として、その初観が日想観である。

この地は四天王寺から一直線に東へ線を引いた位置で、西に四天王寺の堂塔伽藍を望むことができ、その彼方は難波の海へと続く。その先が浄土であると考えられていた。安助上人が川瀬吉松に「あなたの所有する園林は四天王寺の東門にあたる。」といって、日想観を修するためにここに寺を立てさせた。上人は3年ほどここに住んで、秋の彼岸の中日に、真西に沈みゆく日を日想観して夜半に死を得て、往生を遂げた。

これを伝え聞いた人々は、この寺を往生院と呼んで、上人亡き後も、往生を願う念仏の行者が寺中に絶えなかった。

死を覚悟していた楠木軍は本陣を構えたこの寺から夕陽を見ながら浄土への往生を祈願することができたのだろうか。それとも父が湊川で3たび生まれ変わっても南朝を守ろうと誓ったように、来世もこの苦しみの世に生まれ、命をかけた戦いを続けることを望んだのだろうか。

「1348年の「四条縄手の合戦」で往生院は本陣となったために、ことごとく焼かれて一旦灰燼に帰した。その後、河内地方が畠山氏の寺領安堵を得て、往生院も伽藍の再興を遂げるが、それも束の間のことであった。」

1477年、畠山政長、畠山義就の戦いで往生院は城塞として矢面に立たされた。往生院の荘園は減少し、経済的に困窮していった。江戸時代になって、往生院は九条家より、鷹司家に入った信房を壇越として、復興への端緒となった。ついで池島村・浄土宗の僧が鷹司房輔の助力で鐘楼を造建している。その後も破壊されたが、大旦那大和屋某の資力で再興し得た。

第二次世界大戦後、新宗教法の施行に際して浄土宗を脱し、「岩瀧山往生院六萬寺」と号し、どの宗派にも属さない単独寺院となった。