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河内の転換期・河内木綿の最後・刷子工業

河内木綿は、江戸時代、大和川の付け替え工事で広大な木綿栽培の新田ができたこと、北海道への航路が開拓されたことなどから、龍が天に上るがごとき勢いで、栄えることになったが、明治時代、外国から安い木綿が入ってくると下火になってしまったと紹介しました。

『小説河内風土記』(今東光著)からひきつづき、紹介です。

「『なあ。お留。インドちゅう国の綿が仰山(ぎょうさん)入って来たそうやな。今に河内の木綿、あっぷ、あっぷ、せんならんようにならへんか。』

といったことがある。お留はぎょっとして、

『気にするほどの事ないように聞いているけどなあ』

そうは答えたものの手紡糸(てむぎいと)は舶来機械系の進出のために次第に追いまくられ、その上に実はもっと悪いことが起こっているのであるが、とうていおかんの耳に入れる気がしなかったので黙っていた。それは縞久のお爺の話によると、

『河内の奴は、ほんまに阿呆んだらじゃ。インド綿がはいってきて、競争が激しい最中(さなか)に、えろう悪い染めを拵(こしら)えくさって、案の定、河内木綿の名ァ落しよってん』

これは確かに本当だった。機屋が丈夫な手紡糸を使うと工賃が高くつくので、若江村あたりでできる手紡糸の代わりに、近頃は舶来機械糸を経糸(たていと)に使い出したのである。そのために雲斎とか、厚司とか、足袋地などという手堅く丈夫なものも品質が落ちたところへ、粗悪な染料を使ったので、おかんの時代のように製品が景気よくさばけていかなくなったのである。」

河内木綿の家庭的な手工業に対して機械工業化した先週の攻撃に太刀打ちできなくなった。河内からも泉州の機屋に奉公に行く人も多くなった。(中略)

泉州では綿作が不可いとなると、綿畑を玉葱畑にしてしまった。これは成功した。この海辺の人々は一方では紡績を起こし、タオルやメリヤスを製造しながら、他方では玉葱をアメリカへ輸出して外貨を稼いだ。河内人は生きるために刷子製造を家内工業として家庭へ持ち込んだ。お留は、あれほど愛着の深かった機織り器や紡車を天井裏へしまいこんで、慣れない刷子造りを習った。」

しかし、この刷子の景気も悪くなる。

「刷子の景気が悪くなったのは、もちろん、敗戦の結果、中国や朝鮮や東南アジアの市場を失ったことに原因はあったが、特にアメリカが中共を承認しない国策から、その皺寄せが日中貿易に影響を与えた。(中略)ともかく世界的不景気は「刷子業にも及んだ。」

1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の勅命により大阪府八尾市中野村(いまの近鉄大阪線河内山本駅東側)の天台院の特命住職となった今東光は、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史の理解を深くした。そのおかげで、その小説を通して、大正、昭和期のこの河内の生活がまるでそこに暮らしているかのようにわかるのです。

 

 

八尾市山本・今東光・人の果て

『小説河内風土記』(今東光著)からふたたび紹介します。「一之巻 人の果て」からです。

「河内の人々は、棺桶をにない、檀那寺の和尚を先登に立てた長い行列をつくって、野っ原を吹く風にさらされながら、この焼き場の道を辿る。それが人間の最後だ。雑草を踏みしめながら、焼き場までくると、棺桶を焼き場に設置し、焼き場の前には小さな屋根で蔽った石の向い仏があり、それに位牌を置いて、嘆仏偈(たんぶつげ)を誦している間に焼香した。

(中略)

これらの会葬者は、銘仙の着流しに羽二重の紋付羽織をひっかけているかと思うと、米と交換した体につかないだぶだぶのモーニングを着ている者もあれば、まったく普段着の姿も見られた。」

これを読んで、昭和の中頃の葬式の姿を思い出しました。全くこの姿でした。焼き場には隠亡(おんぼう)という、人を焼く仕事の人がいた。焼き場の煙突からの煙が黒い色から白い色に変わっていきます。いまと違って焼きあがるまで長い時間がかかっていました。あたりには、髪の毛を燃やしたような臭気が覆い、野犬が啼いていました。

最近は、豪華な葬儀会館に車で乗り付けて広い駐車場に止めます。黒装束の人ばかりで、会場では生前のビデオなど芸能人ばりに上演されます。

昨夜、お通夜に行った人の家の西側に昔、大きな椋の木があったそうです。その木は、大きな石を抱き込んでいて、めずらしいものだから、印刷物にその写真が紹介されたそうです。当時の駒沢先生が生徒を引き連れてその木を見学したと話してくださいました。いまはその木も伐り倒されてもう見ることはできません。まわりの街並みもほとんど変わりました。

わずかの間に、葬儀の形もかわり、人の装束や、経済的な環境もかわり、石を抱いた椋の大木が消えてしまったように、人も消えていきます。いまないものの話をして何になるのだ。そういう気持ちで親のいうことを聞き流してきた激動の昭和時代を生きた私たちが、親から聞いたこと、地元に語りつがれてきたことをいま書き残すことを望まれています。