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河内八尾の寺内町(3)

本願寺第八世蓮如上人が文明十一年(1479年)この地に西証寺(のちの顕証寺)を建立しました。天文十年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。多くの門徒衆が集まり住むとともに、商工業者も集まって活発な商業活動が行われるようになりました。

『八尾の寺内町』ー久宝寺・萱振・八尾ー(八尾市立歴史民俗資料館子弟管理者財団法人八尾市文化財調査研究会編) から紹介します。

「人物で語る寺内町の歴史

寺内町は、戦国時代に畿内近国(近畿地方やその周辺)・中部地方・北陸地方などに建設された宗教都市で、浄土真宗や日蓮宗・法華宗などの寺院を中心としてその周辺に町屋がつくられ、掘や土塁によって囲郭されたものを言います。八尾にある久宝寺・萱振・八尾の3寺内町はすべて浄土真宗の寺内町です。

八尾に真宗寺院がつくられたのは、渋川郡久宝寺村の惣道場(のちの慈願寺)が始まりです。寺伝によれば、慈願寺は浄土真宗の開祖親鸞(1173~1262)の弟子信願房法心が開いた寺で、法心は、下野国(栃木県)那須の豪族那須資村(すけむら)であったと言います。親鸞は60歳を過ぎ、関東から京都に帰ることを決意し、法心を伴います。親鸞没後、法心は、弘安年(1280)年に久宝寺の地に道場を開創したとされます。(中略)

蓮如は久宝寺に西証寺(のちの顕証寺)を建立します。

天文元年(1532)からはじまる畿内一向一揆は、畿内の坊主・門徒が幕府や守護などの武士と対立した大規模な戦いでした。和睦は天文4年(1535)に行われ、寺院や門徒たちは、一定の金を払うことで自分の住む村に帰ることが許され、生活再建がはじまります。この時に、久宝寺村も復興し、寺内町がつくられたと見られます。これに尽力したのが、本願寺10世証如(しょうにょ)の祖と祖父だった蓮淳でした。蓮淳は、当時の真宗の最高実力者で顕証寺の住職として活動しました。

また、萱振には、賢心(けんしん)という僧が恵光寺の住職として活躍していました。彼は「大阪6人坊主」のひとりで、大坂を護る中心人物でしたが、天文7年に没すると、蓮淳の孫、慶超(延深)が入寺し、恵光寺・萱振村を発展させました。」

江戸時代以降は、農村部における商業の中心として発展しました。久宝寺は旧大和川(現在の長瀬川)の船運の要衝として、また堺から八尾街道を経て京都に至る主要幹線の中継点として栄えました。しかし慶長年間に本願寺の東西分派にともなって久宝寺の一部の住人が分離独立して八尾寺内町を建設し、宝永元年(1704年)に大和川付け替えが行われると、それ以降地域の中心は八尾寺内町に移っていったのです。(八尾市まちなみセンターリーフレットを参照して紹介しました。)

大阪府八尾市恩智感応寺・十一面観音

感応院

もう1年以上前になりますが、地元の散髪屋さんで隣に感応寺の住職がおられたので、ブログの話をして近いうちに話をきかせてくださいとお願いしたら、本尊の観音様のお話しをしてくださいました。書きかけのままでしたので紹介します。

昔、聖徳太子が、神武天皇が追ってから隠れて命が助かったという大木を探して恩智の天皇の森にやってきたが、その大木は落雷があったのか、すでに朽ちていた。そこでその根っこを掘り出して仏師に観世音菩薩を彫らせた。それが感応寺所蔵の十一面観世音菩薩だというのが、地元・恩智に伝わる話です。

「たしか、十一面観音だと思っていたのですが、境内のどこにも案内が書いていないですね。国宝じゃなかったのですか。」

「いや、昔は国宝だったのですが今は重要文化財です。道明寺の十一面観音は国宝です。」

お坊さんなので散髪はわずかな時間でしたが、六観音の名前を教えていただきました。インタネット(ウィキペディアなど)も調べたので、簡単に紹介しておきます。

<観世音菩薩>梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、(遍く)+(見る)+(自在者)という語の合成語。「観自在」とは、智慧をもって観照することにより自在の妙果を得るという意味である。観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。西国三十三所観音霊場の「33」という数字はここに由来する。

あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝(じゅんてい)観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。

<聖観世音菩薩>

真言:オン・アロリキャソワカ。大慈の観音として、六観音の役割では地獄道を救う。もともとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった[1]

<十一面観世音菩薩>

真言:オン・ロケイ・ジンバラ・キリク・ソワカ。十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。

十種勝利(病気にかからない、一切の如来に受け入れられる、金銀財宝や食物などに不自由しない、金銀財宝や食物などに不自由しない、一切の怨敵から害を受けない、国王や王子が王宮で慰労してくれる、毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない、一切の凶器によって害を受けない、溺死しない、焼死しない、不慮の事故で死なない)四種功徳(臨終の際に如来とまみえる、地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない、早死にしない、今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる、)

感応院に行けば、聖徳太子のおかげで十一面観世音菩薩に出会えてこの勝利・功徳をいただけるのですね。

<千手観世音菩薩>真言:オン・バザラ・タラマ・キリク。梵名サラスブジャ・アーリア・アヴァローキテーシュヴァラ。

正しい名前は千手千眼観自在菩薩で、千本の手がありその手の掌には目が付いています。手は多くの人々に救済の手を差し伸べ、目は人々を教え導く知をあらわすとされています。このように千の手と目はどんな人達でも漏らさず救済しようとする広大無限の慈悲の心を表現しているのです。

観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。

藤井寺市葛井寺の像は、大手が40本(宝鉢手をつくらない)、小手は1,001本である。小手は正面から見ると像本体から直接生えているように見えるが、実は、像背後に立てた2本の支柱にびっしりと小手が取り付けられている。葛井寺像の大手・小手の掌には、絵具で「眼」が描かれていたことがわずかに残る痕跡から判明し、文字通り「千手千眼」を表したものであった。

<如意輪観世音菩薩>真言:オン・ハンドメイ・シンダ・マニ・ジンバラ・ウン。梵名チンターマニチャクラ。

如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を救い導くという。

<准胝観音(じゅんてい)観世音菩薩>真言:オン・シャレイ・ソレイ・・ジュンテイ・ソワカ。

梵名チュンディ、清浄の意味。ヒンズー教の女神ドゥルガー。手は18本で3つ目の姿であることが多い。空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれている。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生した。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られている。

<馬頭観世音菩薩>真言:オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ。梵名ハヤグリーヴァ。ヒンズー教では最高神ヴィシュヌの異名。憤怒相は密教では馬頭明王と呼ばれる。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも数える。生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。

<不空羂索観音>真言:オン・アボキャ・ビジャシャ・ウン・ハッタ。梵名アモーガパーシャ。「不空」はむなしからず。「羂索」は狩猟用の投げ縄。必ず衆生をもれなく救済するという意味。多くの腕があり(一面、三目、八臂の姿が一般的)、鹿の皮をまとう。ヒンズー教のシヴァ神。

20年ほど前には、各お寺や町会で観音講というのがあって、お葬式のときは町会の観音講が集まって、御詠歌や観音経をあげていました。いまは町会の観音講のほとんどが解散してしまって、お寺の観音講も残っているところはわずかです。お地蔵様や、観音様といえば身近な存在でしたが、若い世代には接点が少なくなっていくのですね。地蔵講の場合は夏の地蔵盆が盛んに行われていますから、子供たちにも引き継がれていくでしょう。