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河内八尾の寺内町(3)

本願寺第八世蓮如上人が文明十一年(1479年)この地に西証寺(のちの顕証寺)を建立しました。天文十年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。多くの門徒衆が集まり住むとともに、商工業者も集まって活発な商業活動が行われるようになりました。

『八尾の寺内町』ー久宝寺・萱振・八尾ー(八尾市立歴史民俗資料館子弟管理者財団法人八尾市文化財調査研究会編) から紹介します。

「人物で語る寺内町の歴史

寺内町は、戦国時代に畿内近国(近畿地方やその周辺)・中部地方・北陸地方などに建設された宗教都市で、浄土真宗や日蓮宗・法華宗などの寺院を中心としてその周辺に町屋がつくられ、掘や土塁によって囲郭されたものを言います。八尾にある久宝寺・萱振・八尾の3寺内町はすべて浄土真宗の寺内町です。

八尾に真宗寺院がつくられたのは、渋川郡久宝寺村の惣道場(のちの慈願寺)が始まりです。寺伝によれば、慈願寺は浄土真宗の開祖親鸞(1173~1262)の弟子信願房法心が開いた寺で、法心は、下野国(栃木県)那須の豪族那須資村(すけむら)であったと言います。親鸞は60歳を過ぎ、関東から京都に帰ることを決意し、法心を伴います。親鸞没後、法心は、弘安年(1280)年に久宝寺の地に道場を開創したとされます。(中略)

蓮如は久宝寺に西証寺(のちの顕証寺)を建立します。

天文元年(1532)からはじまる畿内一向一揆は、畿内の坊主・門徒が幕府や守護などの武士と対立した大規模な戦いでした。和睦は天文4年(1535)に行われ、寺院や門徒たちは、一定の金を払うことで自分の住む村に帰ることが許され、生活再建がはじまります。この時に、久宝寺村も復興し、寺内町がつくられたと見られます。これに尽力したのが、本願寺10世証如(しょうにょ)の祖と祖父だった蓮淳でした。蓮淳は、当時の真宗の最高実力者で顕証寺の住職として活動しました。

また、萱振には、賢心(けんしん)という僧が恵光寺の住職として活躍していました。彼は「大阪6人坊主」のひとりで、大坂を護る中心人物でしたが、天文7年に没すると、蓮淳の孫、慶超(延深)が入寺し、恵光寺・萱振村を発展させました。」

江戸時代以降は、農村部における商業の中心として発展しました。久宝寺は旧大和川(現在の長瀬川)の船運の要衝として、また堺から八尾街道を経て京都に至る主要幹線の中継点として栄えました。しかし慶長年間に本願寺の東西分派にともなって久宝寺の一部の住人が分離独立して八尾寺内町を建設し、宝永元年(1704年)に大和川付け替えが行われると、それ以降地域の中心は八尾寺内町に移っていったのです。(八尾市まちなみセンターリーフレットを参照して紹介しました。)

大阪府八尾市恩智感応寺・十一面観音

感応院

もう1年以上前になりますが、地元の散髪屋さんで隣に感応寺の住職がおられたので、ブログの話をして近いうちに話をきかせてくださいとお願いしたら、本尊の観音様のお話しをしてくださいました。書きかけのままでしたので紹介します。

昔、聖徳太子が、神武天皇が追ってから隠れて命が助かったという大木を探して恩智の天皇の森にやってきたが、その大木は落雷があったのか、すでに朽ちていた。そこでその根っこを掘り出して仏師に観世音菩薩を彫らせた。それが感応寺所蔵の十一面観世音菩薩だというのが、地元・恩智に伝わる話です。

「たしか、十一面観音だと思っていたのですが、境内のどこにも案内が書いていないですね。国宝じゃなかったのですか。」

「いや、昔は国宝だったのですが今は重要文化財です。道明寺の十一面観音は国宝です。」

お坊さんなので散髪はわずかな時間でしたが、六観音の名前を教えていただきました。インタネット(ウィキペディアなど)も調べたので、簡単に紹介しておきます。

<観世音菩薩>梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、(遍く)+(見る)+(自在者)という語の合成語。「観自在」とは、智慧をもって観照することにより自在の妙果を得るという意味である。観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。西国三十三所観音霊場の「33」という数字はここに由来する。

あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝(じゅんてい)観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。

<聖観世音菩薩>

真言:オン・アロリキャソワカ。大慈の観音として、六観音の役割では地獄道を救う。もともとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった[1]

<十一面観世音菩薩>

真言:オン・ロケイ・ジンバラ・キリク・ソワカ。十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。

十種勝利(病気にかからない、一切の如来に受け入れられる、金銀財宝や食物などに不自由しない、金銀財宝や食物などに不自由しない、一切の怨敵から害を受けない、国王や王子が王宮で慰労してくれる、毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない、一切の凶器によって害を受けない、溺死しない、焼死しない、不慮の事故で死なない)四種功徳(臨終の際に如来とまみえる、地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない、早死にしない、今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる、)

感応院に行けば、聖徳太子のおかげで十一面観世音菩薩に出会えてこの勝利・功徳をいただけるのですね。

<千手観世音菩薩>真言:オン・バザラ・タラマ・キリク。梵名サラスブジャ・アーリア・アヴァローキテーシュヴァラ。

正しい名前は千手千眼観自在菩薩で、千本の手がありその手の掌には目が付いています。手は多くの人々に救済の手を差し伸べ、目は人々を教え導く知をあらわすとされています。このように千の手と目はどんな人達でも漏らさず救済しようとする広大無限の慈悲の心を表現しているのです。

観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。

藤井寺市葛井寺の像は、大手が40本(宝鉢手をつくらない)、小手は1,001本である。小手は正面から見ると像本体から直接生えているように見えるが、実は、像背後に立てた2本の支柱にびっしりと小手が取り付けられている。葛井寺像の大手・小手の掌には、絵具で「眼」が描かれていたことがわずかに残る痕跡から判明し、文字通り「千手千眼」を表したものであった。

<如意輪観世音菩薩>真言:オン・ハンドメイ・シンダ・マニ・ジンバラ・ウン。梵名チンターマニチャクラ。

如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を救い導くという。

<准胝観音(じゅんてい)観世音菩薩>真言:オン・シャレイ・ソレイ・・ジュンテイ・ソワカ。

梵名チュンディ、清浄の意味。ヒンズー教の女神ドゥルガー。手は18本で3つ目の姿であることが多い。空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれている。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生した。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られている。

<馬頭観世音菩薩>真言:オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ。梵名ハヤグリーヴァ。ヒンズー教では最高神ヴィシュヌの異名。憤怒相は密教では馬頭明王と呼ばれる。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも数える。生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。

<不空羂索観音>真言:オン・アボキャ・ビジャシャ・ウン・ハッタ。梵名アモーガパーシャ。「不空」はむなしからず。「羂索」は狩猟用の投げ縄。必ず衆生をもれなく救済するという意味。多くの腕があり(一面、三目、八臂の姿が一般的)、鹿の皮をまとう。ヒンズー教のシヴァ神。

20年ほど前には、各お寺や町会で観音講というのがあって、お葬式のときは町会の観音講が集まって、御詠歌や観音経をあげていました。いまは町会の観音講のほとんどが解散してしまって、お寺の観音講も残っているところはわずかです。お地蔵様や、観音様といえば身近な存在でしたが、若い世代には接点が少なくなっていくのですね。地蔵講の場合は夏の地蔵盆が盛んに行われていますから、子供たちにも引き継がれていくでしょう。

 

 

義経の不思議・屋島の奇襲

平家との水軍での戦いを迎えて、義経は軍監梶原景時と争った。双方刀を抜きかけたほどである。緊張は極限に達していた。義経はこのあと、暴風の中、わずか150騎をひきいて阿波海岸まで航走してしまう。上陸できる確率は10%以下であろう。梶原にも他の諸将にも相談することなく、「あとでこられよ」と言い捨てさせた。

平家は願時の敵前上陸に備えて、讃岐・阿波二国の浦々に警戒部隊を出していたが、海岸線が長すぎて散らばりすぎ、屋島本営には千騎の予備兵しかない。これを150騎で奇襲しようとするのである。義経はふつう3日かかるところを4時間で阿波勝浦に上陸した。暴風の中、遭難の確率のほうが強いのに念の力は天候まで味方につけることができたのです。平家の阿波住人の桜間良遠が警備していたが暴風のために安心して寝ているところを包囲した。そこにいた、近藤七親家は、平治の乱で義朝に属して戦死した者の子供であった。源氏に寝返って讃岐の屋島へ道案内したばかりか、本陣の警備内容まで分かっていた。敵の背後から攻めた。

義経は150騎を二つに分けて、民家に放火したので、本陣の宗盛は大軍と思って本陣を捨てて海上へ逃げた。不意をつかれたための判断ミスであるが、逃げてくれなければ義経は生きてはいまい。源氏の軍が少ないことを知った平氏は引き返した。個人戦闘の強者の実力高い教経が義経に戦いを挑む。奥州の藤原秀衡がつけてくれた佐藤継信が義経の前にたちふさがって教経の矢を受けて死んだ。義経は死を免れた。ふつうではありえない話の連続です。

八尾市神立十三峠・神武天皇の后の御陵に関わる話

『伝統の河内』(松本壮吉著)より紹介します。(一部現代表記にかえました。)

「勢夜多々良姫(せやたたらひめ)は世にも美しい娘であった。だからその頃神の子の若人たちは、月にも花にも勝るこの美しい姫を、我が后にしたいものであると、いずれも心密かに望みを抱いてその機を窺(うかが)っていた。ところがある日、この姫は若神達にそうした事のあるのを知らなかったので、密っと邸を出ると付近の川原へ出かけていき、四方(あたり)を見廻したところ、幸い人気もないので水浴してみる気になり、衣を河畔に脱ぎ捨てると、その白玉のような身体を、碧緑湛(たた)える流の中へ浸し、恰も水の精が人気なき神秘の森の奥で水浴に戯れている様に、さも心地好さそうに戯れていたが、この時、誰もいないと思っていた川上の森の中に、三輪大物主神(みわおおものぬしのかみ)が潜んでこの美しい有様を見ていた。

大物主神は予ねてから姫のことを思っていたので、今眼前にこの神秘的な美しさを見るとすっかり恍惚となり、吾が思いを達するのは今だと思い、傍へいって打ち明け様とした。けれど考えてみれば、花恥ずかしい若い裸体の姫の側へフイに出て行って恥ずかしい思いをさすのは余りにも失礼だと思い返したので、神は早速の思付きから丹塗矢に姿を変えて、川を流れて姫に近づいていくことにした。(中略)

これ(丹塗矢)を邸へ持ち帰り部屋の隅へ立てて置いた。するとその夜、姫が寝床に着くと丹塗矢は何時の間にか美しい立派な壮者(わかもの)になって、ニコニコ笑いながら姫に近づいてきた。姫は寝室に突然壮者の姿を見出したので一時は驚いたが、その壮者が余りに美しいので、遂に姫と壮者は秘めたる喜びを交わしてしまった。そしてこの事があってから、間もなく姫は妊娠し、月満ちて美しい姫を産み落とした。そこでこの姫を媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と名付けたが、この媛も母姫に優る美しい媛となったので、大きくなると神武天皇の后とむかえられたという。

中河内郡大字神立の十三峠は神武天皇の皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の御陵だというが、里人はこれに触れると祟りがあるとて触れない。」

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『古事記』では媛が厠に入っているときに丹塗矢が姫のほとをついたとなっていますが、『伝統の河内』のこの話の方が美しいですね。これらの話がまことだとすると、長男の意富(おお)神社の神八井耳命や次男の綏靖天皇(すぜいてんのう)は大物主神の血をひくことになります。

大物主は渡来系で、この話はギリシャ神話をひきついだものかもしれません。大物主は失われたイスラエルの十部族の末裔だったという展開になるかも。

高安城跡に絡まる話

『伝統の河内』(松本壮吉著)より紹介します。

「天智天皇は御不例の床に居られたが、崩御の後の皇統の事を色々とご心配になって、天皇の弟にあたる大海人(おおあまびと)皇子を招かれ、朕なき後は鴻業(こうぎょう)を継ぐ様にと御頼みになった。ところが皇子は、

『私は性来多病でありますから、天皇の皇子、大友さまに御譲りください』

と辞退した。大友皇子は材器(ざいき)世に傑(すぐ)れた方で、外国の使臣さへ初めて拝謁して、皇子の非凡なるに密かに恐れをなしたといふ程であった。だから大海人皇子はこれをよく知っていたので、皇位を受けられず、大友皇子に位を譲られたのであった。そして自分は早速出家して吉野の山へ入られた。

併し大海人皇子が潔よく皇位を辞し吉野へ引籠った事は、却って疑を蒙(こうむ)る処となり、大友皇子の臣の某は皇子に向って

『大海人皇子は吉野へ入られたがこれは吉野で兵を挙げ朝廷を攻め、君を討たうとしているのであるから気をお付け遊ばせ』と忠告した。(中略)

遂に兵を挙げて吉野の大海人皇子を攻めることになった。ところが大友皇子の后は大海人皇子の娘であったので、このことを聞いて大変悲しみ、父大海人皇子は、何の野心もなくまた兵を集めてもいないのに、ほんの流言に迷って、朝廷の大軍がこれを不意に攻めるとは余りにも情けない事である。」

娘は鮮魚に密書を入れて父のもとに届けさした。大海人皇子は高市皇子等を味方にして多数の軍勢を集めて近江の朝廷を攻めた。戦いは宇治からなら、河内野にも広がった。(672年・壬申の乱)

大友皇子の軍に壱岐史韓国(いきのふひとからくに)という猛将がいて、天智天皇が西海防備のために築いた高安の城に入り、戦ったが、高安の城も落ちてしまい、近江の宮殿も焼き払われた。

ざっとこのような話ですが、皇位継承に関しては、たびたび戦争が起きています。とりまきの人々の欲のために皇室内部の争いになるのですが、悲しいことですね。しかし、天皇家の先祖神の意図があるとしたら、大友皇子(弘文天皇)のような本人の非凡なる知性だけでは世の中を治めることができないと判断されて、大海人皇子(天武天皇)のように病気によって人の世界を体を通して感じ取っていた者に王位継承をさせたのでしょうか。

天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。女でも、一般人でも才能あるものの宮仕えを許した。日本史上にまれな権力集中をなしとげた。日本ではじめて天皇を称したのは天武天皇だとする説が有力である。

 

義経の不思議・壇ノ浦の戦い

『義経』(柴遼太郎著)より紹介します。

一ノ谷の戦いでは、奥州のすぐれた騎馬技術で勝てたが、水軍の戦いとなると、義経軍には技術がないばかりか、船すらない。これまでのように奇襲作戦だけでは勝てません。水軍が必要です。一の谷でみごとな勝利を収めて、世間は源氏に味方すれば勝つのではないかという評価に変わっています。ここで弁慶の父湛増の熊野水軍200艘が義経の味方になります。水夫(かこ)の技術は日本一です。しかし、熊野や伊予50艘の水軍が味方したところで、平家水軍500艘と戦うことはできても勝つことはできない。

義経は平家の予想をうらぎって、陸路から屋島を攻撃した。この奇襲は一応成功したが、残すは水軍での戦いしかなくなった。これには奇襲の道はなかった。

この戦いを決定するものは潮流であった。平知盛は平一門第一の猛将とされる教経(のりつね)に作戦案を話した。

「知盛が戦闘を開始しようとおもっている落潮の時刻は、朝の8時半ごろである。落潮は東のむかって流れる。沈々と流れる。大河のごとくゆるやかであり、この速度こそ戦いの序幕にはうってつけであろう。知盛の案ではこの落潮に乗って源氏を東へ東へと圧迫していく。平家船は自然に進む。源氏船は自然にしりぞく。潮流にさからうことはできない。その潮が時とともに早くなる。 御前11時すぎには流はもっとも激しく、船は急たんに棹さすようであり、平家船はこの急流とともに一機に圧していく。この時期に勝敗は決するであろう。

『決しなければこまるのです』

と、知盛はいった。

なぜならば、午後3時とともに潮は逆転するのである。午後3時になれば塩はいったん停止し、海面は桶のなかの水のようにゆたう。が、やがて、それまで東流していたものが西流しはじめる。つまり源氏船が平家船を追うかたちになるのである。午後5時40分すぎともなれば西流の速度はもっとも激しくなり、平家船は風の前の木の葉のように追いちらされるであろう。

『ですから、最初の一刻(2時間)、2刻のあいだに戦勢を決せねばなりませぬ』」

その方法は幼帝が3種の神器を持って乗っている御座船で義経をおびきよせ、まっしぐらに義経をうちとってしまうことだと説明した。

義経としては、先祖代々周防の海上官をつとめてきた船所正利が義経の水崎案内をつとめたために潮のことは知盛と同様に熟知していた。不思議なことはいっぱいあるが、潮の流れを熟知した船所正利が味方になったことは、義経の勝利には欠かせない要素であった。このおかげでこの戦の要点がみえて、義経は勝利に確信をもつことができた。この潮を選んで攻めてくる平家に6時間どう持ちこたえるかであった。源氏が勝つとみて味方についた源氏の軍団は負けそうになれば逃げかねない。持ちこたえることが勝利につながるということを源氏軍に理解させた。義経は敵船の先頭や、舵取りに矢を集中して殺してしまうという作戦をとった。卑怯だとおもえば、坂東武者は従わない。義経直参の伊勢三郎義盛が

『それが水軍の常套戦法でござる』

というふうに坂東人をだました。

戦いは予想通り平家優勢にはじまった。しかし、梶原景時は潮流の中央をいく敵の正面には出ず、流れの緩い岸辺へよせて時間かせぎをした。源氏の他の諸将もそれをまねた。「時間かせぎ」を言い含めておいた成果である。さらに、平家側の阿波(徳島)の豪族の田内成良(でんないしげよし)が源氏船を護るような動きをしながら時間かせぎをした。寝返りを平家側も気づいたがどうにもできないまま時間はすぎた。

3時になると、塩の流れはとまり、やがて逆転した。このとき、田内成良は寝返った。田内は平家船の偽装を教え、貴人の乗っている船を指さした。800艘の船がその目標に向かって進んだ。平家船はことごとく船頭、舵取り、櫓漕ぎが射殺され運動能力を失って波に漂った。

このようにして、壇ノ浦の戦いは時の勢いを得た源氏に大勝利をもたらし、平家は壊滅しました。時の勢いという表現をしましたが、別のいいかたをすれば人がどうすることもできない神々の働きではなかったのかとも思えます。

こうしてみると、私たちの身の上にも同じことが起こり続けています。教育では努力をすればそのようになるといいますが、人生のさまざまな局面ではかならずしもそうではありません。棚からぼた餅みたいなことが起こりますし、いくら努力をしても水の泡のごとくという場合もあります。この複雑で難しい世の中を知性や努力で生き抜くことなど実際には不可能です。能力のある者ないものすべてが生きながらえていくことは神々の働きによるとしか考えられません。神の意図に乗った努力が実をむすぶ、そういう気がします。平家側の皆様、ご苦労様でした。平家を裏切って源氏についた人、人の世では裏切りという避難があるようですが、神を意識し、神の意図に従ったという意味では高い評価ができると思います。

源義経の不思議・一ノ谷の戦い(2)

『義経』(柴遼太郎著)から最後の様子を紹介しよう。歴史学者に不可能だ、創作だとといわしめた下りである。

一ノ谷の断崖を前にして、他に道を探そうという弁慶に義経は言う。

「『いや、ここから』

と、義経は四つん這いのままふりかえった。目が吊りあがり唇がひきつり、尋常の貌(かお)ではない。目には狂気が宿っていた。その狂気が叫ばした。

『降りるのだ』

一同は驚いた。義経はつづけて叫んだ。臆したるか。

『臆したる殿輩はそのあたりをさまようて道をみつけよ。義経は降りる』

が、狂人ではない証拠にそこへ鞍つきの替え馬を二頭曳いてこさせ、

『この馬をおとせ』

と、命じた。伊勢義盛が鞭をあげ、つづけさまにうち、声を上げて馬を追い、ついに崖から落とした。馬は砂礫を巻きあげつつ流れ落としにおちて行ったが、やがてはるかな崖下で一頭は立ち、首をあげていなないた。が、一頭は倒れたままついに立たない。

『見たか、ここにひとつの運がある』

と、義経はいった。

かつ言う、-まず義経が落す、わが馬の立ちかたを見よ。

弁慶はそれを制止しようとした。しかし、義経はもう馬上にいた。

(中略)

鎧の袖を擦り、ひざをおり、あとは馬術など通用せず、すべて馬の足掻(あが)きにまかせる以外になかった。だが途中の岩棚に落ち、馬は後ろ足を折ったが、すぐ身ぶるいをして立ち上がった。そこからが困難だった。

義経は曲芸のようにして岩場に一あしずつ蹄をおろしはじめた。その間、つぎつぎと武者たちが逆落としに落ちてきた。

眼下の平氏軍に狼狽がおこった。頭上から敵が降ってくるとはおもわなかったからであろう。仮屋から人が走出ては矢を射た。その矢の叫びが、かえって源氏を勇気づけ、崖の恐怖を忘れさせた。

つぎつぎに落ち、さらに人馬とも岩場からすべりおち、地上で馬をおこすや、そのままでその得意の騎射戦をはじめた。

平家はにわかに潰乱した。」

これは極限状態の中で起きた奇跡です。平常心では誰にもできないでしょう。しかし、ここまでのきびしい環境とはおもわなかったかもしれませんが、義経はこの戦いを出発前の京で予測していたのです。誰がどう考えても勝ち目のない戦いに勝利をもたらしたものは何でしょうか。

蛇足ながら、私は思いました。この極限状態になった源氏の一ノ谷城の中での戦いぶりは、神のようだっただろうと。平家の放つ矢は当たらず、源氏の放つ矢は全て急所を貫いたでしょう。

源義経の不思議・一ノ谷の戦い(1)

義経が東北に行ったことで、坂東武者の騎乗術を身に着けた。『司馬遼太郎・歴史の中の邂逅1』で次のように言っている。

「かれら坂東武者を近代戦術における「騎兵」として使ったのは義経である。騎兵のもつ集団としての速度性、奇襲性、突発力に義経は日本史上はじめて着目し、その戦術を創造し、それを成功せしめた。天才というものは旧概念をうちやぶって新しい価値を創造し、歴史をひらくものであるとすれば、義経は日本史上、その称号を冠するに足る数少ないひとりであろう。

騎兵の用兵の成功は、天才を待ってはじめて期待しうるということは、近代にはいってからでも世界史的にその実施例や成功例がきわめて少ないことでもわかる。」

『義経』(司馬遼太郎)によれば、歴史に残る一の谷の戦いは、義経軍3千騎に対して、平家軍3万騎という。誰が見ても義経軍の勝ち目はない。しかし、義経は、考えた。都の源氏の一部がにわかに消え失せる。どこに行ったかとおもいまどううち、数日後にわかに一ノ谷の平家軍の頭上にあらわれて平家混乱の中、勝つというシナリオである。

しかし、この道はかなりの迂回になる上、道は険しく、おまけに最後は道がないという。実際に現場では躊躇する場面がなんどもあった。しかし、義経は先頭を切って進んでしまうのでついていかざるをえない。

あと、一の谷まで18里くらいのところ丹波高原の西端で物見を出したら、平家の布陣があった。相手は2千騎。険しい山道の行軍で疲れ切った義経軍であったが、世が明ける前に襲撃しなければならない。星明かりもなく暗闇のなかでは行軍がまにあわない。民家に火をつけ明かりをつくった。

勝つためには、しかたのないことといえ、民家の家族はどうなったろう。火災は生活の基盤、衣食住のすべてを奪ってしまう。働き手が焼死した家はその後どのように生きながらえようとしたのか。やけどをした子供をかかえた家族は生活基盤を無くしたうえでどのように生きたのであろうか。義経のこととは直接関係のないことだが、私はつい、その後の家族の生活を思ってしまった。

平家軍が民家で寝ている間を奇襲して、平家軍は驚いて逃げるしかなかった。ここで、義経は自分に3十騎を残して、残りで海岸沿いを平家の西城戸に向かわせた。そのあと、頂きに登って平家軍をみた。星空の下の海は、星の数より多い船篝火(かがりび)が燃え、はるか淡路島にいたるまでの空間をうずめている。

司馬遼太郎は、義経はおもわず鎧の下の身がふるえてくるのを、とめることができないと書いている。実際にそうであっただろう。この極限状態が3十騎に後世、誰もが不可能、事実でないと思わせたあの有名な一ノ谷の断崖下りをさせる力を与えるのである。

義経軍は樵(きこり)などに道を聞きながらここまできた。しかし、これからは道がない。方向がわからなくなってしまう可能性もある。ここで弁慶が山小屋にいた青年を連れてくる。この少年は一ノ谷まで獣のわなを仕掛けに行ったことがあるという。こんな出会いが起こりうるのか。奇跡の連続である。極限状態が奇跡を呼び寄せるのだろうか。

この少年の導きで一ノ谷まできた。断崖の下を見下ろすとそこが平家の一ノ谷城の城内であった。分かれて行動をとった義経軍の姿は見えず、苦戦していると思われた。道を探そうという弁慶の言葉を退けて、いまこの断崖を降りなければ、合戦の機を失うと、義経は先頭を切って皆に馬のさばき方を見せて断崖を下降した。

 

 

源義経の不思議な運命・弁慶との出会い

弁慶と牛若丸の出会いは五条大橋の上ではなかったのですね。『義経』(柴遼太郎著)を読んではじめて知りました。その頃には五条大橋はまだ無かったようです。鞍馬山をぬけだした義経は奥州から京に来ていた金売りの吉次につれられて、奥州藤原秀衡の元に行くですが、敵(かたき)討ちのために京の様子を探ろうとして、藤原氏の商船に同乗して京都に戻ります。女装をして、何日か京都を歩いているうちに、牛若丸(九郎義経)は、弁慶に声をかけられます。

「『お名を、きかせられ候らえ。拙僧は、熊野の別当湛増(べっとうたんぞう)の子、叡山西塔に住む武蔵坊弁慶と申す法師でござる」

と野ぶとく言い、あとはだまってかつぎの下の九郎の顔をじっと見つめた。男である、とすでに見やぶっている様子なのである。

『申されよ』

足駄が鳴り、この西塔の法師はせきこみ、いよいよ尋常でない関心を示しはじめた。

『申されずば、拙僧(こち)が独り語りをつかまつろう。聞かれよ』

最初、袖をふれあったときから足下(そっか)が男である、と見ぬいたという。

『若い男が女装をして黄昏(たそがれ)をかわほりのごとく辻から辻へと舞あるくのを見るのは乱の兆しである、と陰陽道にある』

法師はなかなかの学舎であるらしい。(なるほど、乱のきざしとは。-)

と、九郎はその言葉に魅せられた。平家を転覆しようとしている自分が、乱のきざしでなくてなんであろう。」『義経』(柴遼太郎著)

この湛増というのは、紀州田辺に城館をもち、熊野地方の宗教施設を管理し、熊野武士といわれる一種の僧兵をひきい、水軍までもっているという、宗教軍団の長官職であると書いている。

義経は藤原氏の商船に同乗したときに、船の技術を教わり、弁慶という水軍とつながりのある人物に出会い、壇ノ浦での強い水軍を持つ平家との決戦の準備をしているがごとくの動きです。弁慶はひとりぼっちの義経に分身となって助け、最後に義経を守って、体いっぱいに弓矢をうけて立ったまま往生します(弁慶の立ち往生)。

 

 

義経の不思議・鞍馬牛若の変心

平治の乱で源義朝側で平家に滅ぼされた残党である鎌田正近は融通念佛の僧になり、平家の目から逃れ、四条の聖と呼ばれていた。

牛若の母・常盤(ときわ)から、牛若の居場所を聞き出した鎌田正近は牛若を探し出して牛若に会った。清和天皇からの源家の系図を示し、牛若に自分の手を切らせ、その血をなめて味あわせた。それが源家の味だと体感させた後、源氏歴代の人々の武勇譚を聞かせた。

「『御父の仇を打ち参らせよ」

正近が繰り返すこの言葉は、錐(きり)のごとくするどく少年の心に揉みこんでゆく。

「復讐の資質は」

と正近はいうのである。

_この濁世(じょくせ)の栄達はのぞむな。栄華にあこがれるな。

正近の言葉は、少年の心につぎつぎと滲みこんでゆく。正近は唐土(もろこし)の臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の故事をあげた。復讐者の一生は復讐のほかに快楽をもとめてはならぬ。』(『義経』(司馬遼太郎著))

牛若はこの瞬間から、復讐者になった。義朝などの霊がこのような出会いを作ったのでしょうか。正近は、この瞬間のみ牛若の前に現れ、二度と牛若とあうことはなかったと司馬遼太郎は書いています。

牛若(義経)は、その役目を漫画に登場する英雄のように劇的に果たしたあと、兄頼朝に殺されるという運命をたどります。鞍馬の僧のもとで育ったにもかかわらず、

「復讐のためには地獄に落ちることも厭わず。」

と成仏を願うことのなかった義経。死んだあとは、本当に地獄に落ちたのでしょうか。兄に殺されたことでこの世で義経の地獄は終わったのでしょうか。