月別アーカイブ: 2016年7月

河内に生きる人々(5)

『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)から引き続き要約しながら紹介します。

信長、秀吉で戦国時代が終わりますが、秀吉の死後、徳川家康と幼い豊臣秀頼を擁立する豊臣方の戦いになります。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝って、征夷大将軍となります。家康は大阪方の莫大な財産を使わすために秀吉のとむらいと称してして、多くの社寺造営・修理をさせます。その一番おおがかりな京都方広寺大仏再建工事で鐘にきざまれた「国家安康、君臣豊楽」にいちゃもんをつけ、大坂冬の陣が起きます。負けた大阪方は一番外側の惣堀(そうぼり)や二の丸の堀を埋めさせられます。大阪方はふたたび夏の陣を起こしますが、この勝敗を決めた決定的な戦いが、国分・道明寺の戦いと八尾・若江の戦いでした。もろに河内でくりひろげられた戦いです。大坂冬の陣でいちおう戦争は終わります。河内はようやく平和を迎え、その中で繁栄への道を歩みだします。

「あの畠山一族の戦いから戦国時代の長い戦いの日々が終わり、やっと平和がおとずれたのです。農業をするものにとって、安心して働ける日々が、一番待ち遠しかったに違いありません。戦争では武士たちは農家を焼き、田畑の作物を切り倒します。その上、戦いにかり出され命を落とした人々もたくさんいました。そんな心配がなくなったのです。」『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)

江戸時代に入って300年近く河内には戦争のない平和な時代が続きます。百姓は生かさず殺さずという徳川政権の政策がありましたが、河内農民は平和を喜んだでしょうし、平和は河内住民に潤いをもたらしました。この時代、百姓は雑穀の粥に野菜も混ぜて食べ、米は特別な日にかぎられました。水のみ百姓はさらに食事情は悪く、そのことばのとおり、不足する分は水で腹を満たしていました。都会は多少豊かであったようです。これは一般的な百姓の食事情ですが、河内は副業もあったのでそれより少し豊かであったと考えられます。

鎌倉時代にはまだ武士も質素な食事であったが、室町時代からは公家、寺家などとともには豪奢で洗練された食事をとりようになった。料理人は包丁技術に工夫をこらし、昆布・炒り子・削りかつおなどでだしをとり、みそを中心に、塩・酒・たまりなどで調味した。戦国の武将は野菜・魚・長獣肉を玄米とともに食べた。

こうしてみると、今のわたしたちは、百姓の食事とはほど遠い戦国武将並みの食事をしているのですね。ついでに、付け加えておきたいのですが、活動的である武士は塩味が濃かったようです。いま塩分制限を言いすぎて、塩分と水分不足で熱中症になる人が増えています。塩分不足は気力に影響します。

私は学生の頃、元気な年寄に健康の秘訣はと聞いたら、毎日梅干しを1個食べることと教えられました。ただ、私はその他に大好きないかの塩辛を食べ過ぎて塩分過剰で慢性腎炎になってしまいましたが、何事も適度が大切です。

平和に暮らしていても、武道の精神は引き継がれました。私が子供のころ、山の中で落ちている木の枝を木刀代わりにして、木々の裾のほうの枝を付け根から落とす遊びをしていましたし、恩智の人に武士の気迫を感じていました。何の知識もない幼い子供のときに、天皇家の血、武士の気迫、このようなものを感じていたのですね。

河内はまさに、日本国の「根」といえましょう。この根を感じている人たちがあります。新しい時代はここから始まるといって、遠方からも集まり、数年前から活動を始めています。この人たちと縁ができた当時、私は何のことかよく理解できませんでしたが、いま歴史を学び始めてそれがわかりました。目に見えない存在の動きがあるのでしょう。静かな池の真ん中に生じた一滴の波紋が輪を描きながら周りに広がっていく姿が見えます。どんな展開となるのでしょう。わくわくしますね。

河内に生きる人々(4)

引き続き、戦国時代の河内を『動乱の河内』(八尾市立歴史民俗資料館編集発行)から紹介します。

16世紀中頃からや畠山氏と細川氏の守護代として力を蓄えていた三好長慶(みよしながよし)が畿内を二分する勢力となっていた。畠山氏の家臣で北河内に地盤のあった安見宗房(やすみむねふさ)が守護畠山高政(政長系)を追い出したが、三好長慶が戻した。しかし、1562年教興寺合戦で三好長慶が河内一国を支配した。長慶死後(飯盛城で病死)、三好内部で争いが起こり、畠山高政は松永秀久と組み、なお影響力を持ち続けた。

織田信長が上洛後、河内国は三好善継(よしつぐ)と畠山高政の弟秋高(あきたか)のふたりが支配することになった。ところが将軍足利義昭(よしあき)と織田信長の対立にかかわり、畠山・三好家の内部で対立が生じ、畠山秋高は守護代遊佐信教(ゆさのぶより)に殺害された。三好善継も信長によって滅ぼされた。これで200年続いた河内守護畠山氏の歴史が終わった。

『新版日本生活文化史5動乱から無秩序へ』(清水勝発行)から紹介します。

「日本の歴史はじまって以来はじめて、土地と人民とを一手に完全に治めるようになったのが戦国大名である。(中略)

われわれは、応仁の乱というと、ただ全国の守護大名が東軍と西軍に分かれて永い戦争を戦ったことを考える。

これは確かにその通りなのだが、応仁の乱のもうひとつの側面は、実際に農地を確保している者、あるいはこれを耕作する農民、いいかえればあらゆる階層の農民の急速に成長してくる力の前に守護大名の支配のやりかたが無力だったところにあったのである。

守護大名と直接の戦闘を交えた者さえあった。山城の国一揆として有名な、1485年、山城の主だった国人衆が畠山氏の軍勢に退去を要求した例などがそうである。

しかし戦ったのは「国人」とか「国衆」とか呼ばれる、有力な農民(土豪)ばかりではないのであり、最下層の農民も、いや農耕すらできない社会のいちばん外側の人間でさえ戦ったのであった。」

そして農民に対しての規制をつぎのように書いている。

「戦国時代の農民は、土地と何人かの下人を持って比較的地位の高い名主のクラスとそれ以下の百姓のクラスとに分けて考えられ、ふつう「名主・百姓」と呼ばれていたが、この名主・百姓こそ戦国大名にとって一番貴重な財産であった。それだけにまた大名はあらゆる手段を使って農民が耕地を放り出して逃げていくのを防止したのである。」

主に農民によって構成されていた河内の国の戦国時代はたえず命を賭した戦いに巻き込まれた時代だったのですね。いまでも古い百姓家には刀、弓、槍などが保管されています。またこの時代の商業について次のように書いています。

「この時代における農業生産力の増大は、農村における商品経済の発展をうながした。それはとくに畿内において著しく、応仁・文明ころの農村で、農間副業としての手工業生産、その販売など、そのいずれかに携わっていない村はないという有様であった。」少しゆとりのある生活が憶測されます。命を賭した緊張と豊かさに向かってがんばるこの時代の河内人の心意気は今にも伝わっています。

いま、行き詰ったように見える世界経済、しかし、河内人はこの時代こそたくましく生き抜くでしょう。