月別アーカイブ: 2016年7月

河内に生きる人々(5)

『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)から引き続き要約しながら紹介します。

信長、秀吉で戦国時代が終わりますが、秀吉の死後、徳川家康と幼い豊臣秀頼を擁立する豊臣方の戦いになります。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝って、征夷大将軍となります。家康は大阪方の莫大な財産を使わすために秀吉のとむらいと称してして、多くの社寺造営・修理をさせます。その一番おおがかりな京都方広寺大仏再建工事で鐘にきざまれた「国家安康、君臣豊楽」にいちゃもんをつけ、大坂冬の陣が起きます。負けた大阪方は一番外側の惣堀(そうぼり)や二の丸の堀を埋めさせられます。大阪方はふたたび夏の陣を起こしますが、この勝敗を決めた決定的な戦いが、国分・道明寺の戦いと八尾・若江の戦いでした。もろに河内でくりひろげられた戦いです。大坂冬の陣でいちおう戦争は終わります。河内はようやく平和を迎え、その中で繁栄への道を歩みだします。

「あの畠山一族の戦いから戦国時代の長い戦いの日々が終わり、やっと平和がおとずれたのです。農業をするものにとって、安心して働ける日々が、一番待ち遠しかったに違いありません。戦争では武士たちは農家を焼き、田畑の作物を切り倒します。その上、戦いにかり出され命を落とした人々もたくさんいました。そんな心配がなくなったのです。」『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)

江戸時代に入って300年近く河内には戦争のない平和な時代が続きます。百姓は生かさず殺さずという徳川政権の政策がありましたが、河内農民は平和を喜んだでしょうし、平和は河内住民に潤いをもたらしました。この時代、百姓は雑穀の粥に野菜も混ぜて食べ、米は特別な日にかぎられました。水のみ百姓はさらに食事情は悪く、そのことばのとおり、不足する分は水で腹を満たしていました。都会は多少豊かであったようです。これは一般的な百姓の食事情ですが、河内は副業もあったのでそれより少し豊かであったと考えられます。

鎌倉時代にはまだ武士も質素な食事であったが、室町時代からは公家、寺家などとともには豪奢で洗練された食事をとりようになった。料理人は包丁技術に工夫をこらし、昆布・炒り子・削りかつおなどでだしをとり、みそを中心に、塩・酒・たまりなどで調味した。戦国の武将は野菜・魚・長獣肉を玄米とともに食べた。

こうしてみると、今のわたしたちは、百姓の食事とはほど遠い戦国武将並みの食事をしているのですね。ついでに、付け加えておきたいのですが、活動的である武士は塩味が濃かったようです。いま塩分制限を言いすぎて、塩分と水分不足で熱中症になる人が増えています。塩分不足は気力に影響します。

私は学生の頃、元気な年寄に健康の秘訣はと聞いたら、毎日梅干しを1個食べることと教えられました。ただ、私はその他に大好きないかの塩辛を食べ過ぎて塩分過剰で慢性腎炎になってしまいましたが、何事も適度が大切です。

平和に暮らしていても、武道の精神は引き継がれました。私が子供のころ、山の中で落ちている木の枝を木刀代わりにして、木々の裾のほうの枝を付け根から落とす遊びをしていましたし、恩智の人に武士の気迫を感じていました。何の知識もない幼い子供のときに、天皇家の血、武士の気迫、このようなものを感じていたのですね。

河内はまさに、日本国の「根」といえましょう。この根を感じている人たちがあります。新しい時代はここから始まるといって、遠方からも集まり、数年前から活動を始めています。この人たちと縁ができた当時、私は何のことかよく理解できませんでしたが、いま歴史を学び始めてそれがわかりました。目に見えない存在の動きがあるのでしょう。静かな池の真ん中に生じた一滴の波紋が輪を描きながら周りに広がっていく姿が見えます。どんな展開となるのでしょう。わくわくしますね。

河内に生きる人々(4)

引き続き、戦国時代の河内を『動乱の河内』(八尾市立歴史民俗資料館編集発行)から紹介します。

16世紀中頃からや畠山氏と細川氏の守護代として力を蓄えていた三好長慶(みよしながよし)が畿内を二分する勢力となっていた。畠山氏の家臣で北河内に地盤のあった安見宗房(やすみむねふさ)が守護畠山高政(政長系)を追い出したが、三好長慶が戻した。しかし、1562年教興寺合戦で三好長慶が河内一国を支配した。長慶死後(飯盛城で病死)、三好内部で争いが起こり、畠山高政は松永秀久と組み、なお影響力を持ち続けた。

織田信長が上洛後、河内国は三好善継(よしつぐ)と畠山高政の弟秋高(あきたか)のふたりが支配することになった。ところが将軍足利義昭(よしあき)と織田信長の対立にかかわり、畠山・三好家の内部で対立が生じ、畠山秋高は守護代遊佐信教(ゆさのぶより)に殺害された。三好善継も信長によって滅ぼされた。これで200年続いた河内守護畠山氏の歴史が終わった。

『新版日本生活文化史5動乱から無秩序へ』(清水勝発行)から紹介します。

「日本の歴史はじまって以来はじめて、土地と人民とを一手に完全に治めるようになったのが戦国大名である。(中略)

われわれは、応仁の乱というと、ただ全国の守護大名が東軍と西軍に分かれて永い戦争を戦ったことを考える。

これは確かにその通りなのだが、応仁の乱のもうひとつの側面は、実際に農地を確保している者、あるいはこれを耕作する農民、いいかえればあらゆる階層の農民の急速に成長してくる力の前に守護大名の支配のやりかたが無力だったところにあったのである。

守護大名と直接の戦闘を交えた者さえあった。山城の国一揆として有名な、1485年、山城の主だった国人衆が畠山氏の軍勢に退去を要求した例などがそうである。

しかし戦ったのは「国人」とか「国衆」とか呼ばれる、有力な農民(土豪)ばかりではないのであり、最下層の農民も、いや農耕すらできない社会のいちばん外側の人間でさえ戦ったのであった。」

そして農民に対しての規制をつぎのように書いている。

「戦国時代の農民は、土地と何人かの下人を持って比較的地位の高い名主のクラスとそれ以下の百姓のクラスとに分けて考えられ、ふつう「名主・百姓」と呼ばれていたが、この名主・百姓こそ戦国大名にとって一番貴重な財産であった。それだけにまた大名はあらゆる手段を使って農民が耕地を放り出して逃げていくのを防止したのである。」

主に農民によって構成されていた河内の国の戦国時代はたえず命を賭した戦いに巻き込まれた時代だったのですね。いまでも古い百姓家には刀、弓、槍などが保管されています。またこの時代の商業について次のように書いています。

「この時代における農業生産力の増大は、農村における商品経済の発展をうながした。それはとくに畿内において著しく、応仁・文明ころの農村で、農間副業としての手工業生産、その販売など、そのいずれかに携わっていない村はないという有様であった。」少しゆとりのある生活が憶測されます。命を賭した緊張と豊かさに向かってがんばるこの時代の河内人の心意気は今にも伝わっています。

いま、行き詰ったように見える世界経済、しかし、河内人はこの時代こそたくましく生き抜くでしょう。

河内に生きる人々(3)

『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)に高安地域の歴史がわかりやすく書かれています。この本に出てこない戦国時代は『動乱の河内』(八尾市立歴史民俗資料館編集発行)を中心にいずれも要約し、私の意見をまじえながら紹介します。

7000年前、恩智は、生駒山の豊かな山の幸、旧大和川、河内湾の海の幸にめぐまれて人が生活するのに都合のよい土地であったことが恩智遺跡(天皇の森)から出土する縄文遺跡からわかります。人口が増えて西方のデルタ地帯(東弓削)に集落が発展します。恩智から銅鐸が2つ出ています。銅鐸は当時大変な値打ちのあるものでいかに栄えていたかわかりますし大陸との交流があったことも想像されます。

3世紀の末頃から豪族の墓である古墳づくりがさかんに行われ、羽曳野市、柏原市から八尾市の生駒山脈の麓には大小多くの古墳が残されています。強大な勢力を持つ豪族が存在していたことがわかります。

6世紀には、朝鮮半島で国どおしの争いが激しくなってきました。百済が新羅と争い、大和朝廷に助けを求めてきました。援軍を送った日本は負けてしまいます(白村江の戦い)。このとき、天智天皇は唐や新羅からの侵攻を防ぐために高安城(たかやすのき)を築きます。

国内では物部氏と、大陸からのすぐれた技術や知識をもった集団をかかえた曽我氏とが対立し、仏教を取り入れるか否かの対立をきっかけに戦争が河内で繰り広げられ、物部氏に代わって勝った曽我氏が恵まれた河内を支配します。

飛鳥時代の終わりごろ、大化の改新が行われました。それまで豪族のものであった土地と住民は国(天皇)のものとなり(公地公民)、その時、土地を条里制によって地割しました。戸籍もつくられました。。世の中の大きな変貌に翻弄されながら対応していく河内農民の姿が目にうかびます。条里制の地割に使役される農民も大変だったでしょうね。

人口が増えて土地が不足してきたので、開墾促進のため、三世一身法、続いて墾田永世私財法がだされました。自分で開墾した土地は永久に使用してよいということになると、貴族や大寺院などが大規模な開墾を行い、公の土地の圧迫が起きて、朝廷は荘園整理令を出します。鎌倉時代になると、荘園は武士の侵略を受け、戦国大名が出る時期には荘園は完全に姿を消します

『ふるさと高安』では児童の教育に好ましくないと考えて意図的にさけたのか、記載がありませんが、南北朝の時代に楠正成や恩智左近などがこの地域で戦いを繰り広げ、何度も戦場になります。

室町時代の7代将軍足利義勝から八大将軍足利義政のの時代の始めにかけて、将軍を助けて政治をおこなう管領職をめぐって、畠山氏と細川氏が勢力争いをしました。畠山家では、持国(もちくに)の実子義就(よしなり)と養子政長(まさなが)が家督あらそいをしました。このような争いが絶えず、1467年応仁の乱がおきます。その後1493年、将軍足利義材(よしき)は、義就の息子基家(もといえ)追討のために河内正覚寺に陣します。多くの大名が召集され、未曽有の軍隊が河内国に召集されたのです。この頃の河内は絶えず激しい戦場となり、不安で眠れない夜が続き、住家や寺、畑など荒らされて住民はどのように生きていたのでしょう。食べ物が略奪され、娘は犯され、無法地帯となった河内の祖先たちはこの地獄をくぐりぬけてきて、あるものは負傷し、あるものは命を失い、そうでないものでも餓死寸前の生活を強いられたのでしょう。

それに比べて今は何とめぐまれた時代でしょう。国を挙げて戦った第二次世界大戦に完敗して滅亡してしまってもしかたがない状況を迎えながら、それが世界の経済大国になり、豊かな生活を享受しているのです。日本はその歴史の中で、1度は神風によって救われ、2度目は敗戦によって救われる。日本の氏神が働いているとしか考えられません。河内が裏方で王朝を支えたように、日本は地球王国の裏方で力を発揮するときが来ているような気がします。

私のように過去世の悪業との出会いを恐れたり、済んでしまって変えることができない過去を振り返ってどうするのだというような考えで歴史を敬遠していたことがいかに愚かなことであったか。歴史を振り返ることで、その祖先たちの生き様がいま、自分の基礎となっているのだということに気付かされました。祖先神という自分の根を意識して自分の役割を果たさなければと思いました。

 

 

河内に生きる人々(2)

『ふるさと高安』(八尾市立高安西小学校編集発行)に「高安」の地名の由来が書かれています。『三代実録』に、7世紀中頃孝徳天皇の時代に高安公陽倍(きやべ)が自分たち氏族の名前をとって、この地に名づけた。高安公陽倍は中国や朝鮮からわたってきた渡来人で、この地域は多くの渡来人が住み着いていた。河内は、中国や朝鮮の新しい文化や進んだ技術がれ満ち溢れ、当時は日本国内における、もっとも進んだ地域の一つだった。『河内今昔事典』の冨田さんがおっしゃった王朝を支える使役・軍役を含んだ農業集団だけでなく、進んだ大陸技術の技術集団でもあったのです。

「大化の改新」のころ、朝廷は大陸から進んだ制度や技術を積極的に取り入れた。その技術集団が、ここ高安にいたというのです。いまのIT技術集団にあたるような革新的な感じがしたでしょう。

河内という地域が、農業でも技術でも華やかな王朝を支える陰の存在役を担ってきたのです。歴史の中で河内は華やかな表舞台には立たなかったが、表舞台を支える重要な地域と認められてきた様子はどの時代にも感じられます。しかし、農業が政策によって、他の経済の犠牲となり、技術は分散してしまった今、当時のおもかげは消えかけています。

しかし、今世界経済の行き詰まりを迎えて、ふたたび、この河内が華やかな地球を支える地域に返り咲くことはできないでしょうか。度重なる戦いに命を賭けて日本の過去を支えてきた河内住民に、今、その性根を再現するよう、新たな大きな期待を膨らませたいと思います。時代の先端を果敢に生き抜く濃縮された遺伝子を持つ河内人が必ず新しい道を開墾していくでしょう。

 

河内に生きる人々(1)

前世をきらって歴史に近づこうとしなかった私が、70歳近くなって、昨年から河内の歴史を書くことになってしまいました。人に聞いたり、本を読んだりしてさまざまな歴史を紹介させてもらいながら、驚いたり感動してきました。さまざまな出来事に巻き込まれながら、この地域の祖先はどのような智慧や、性質を身に着けてきたのだろうか。そう思っていると、『河内今昔事典』(冨田寅一著)に出会いました。

河内百姓の血を引く冨田さんは、河内の歴史を描かれた作家、司馬遼太郎、大谷晃一、堺屋太一さんに違和感を感じられたそうです。今東光さんの浅吉物語は評価されています。たしかに今東光さんは、河内人独特の性質をよく表現しておられます。冨田さんにとってはそこが大事だったのでしょう。

冨田さんによると、河内の特徴は以下のようになります。

九州から東征してきた高千穂族が大和政権を成立して以来、約2000年の間、河内は王朝の近くで華やかな王朝を支える百姓「裏方」の国であり続けた。東征当時、山麓まで海であり、その後、上流に崩れやすい土砂の山を持った大和川が、氾濫を繰り返しながら海を埋め、海は湖や沼になっていった。その広い沼沢地・河内の開拓は飛鳥時代から平城京期へと続いて行われている。そして次のように書かれています。

「多くの人が集まる王城の近くには豊富な農業国が必要である。輸送が発達していない昔は、重い農産物を活用するには近くの土地で収穫しなければならない。またそれを作る農民を朝廷の使役や軍役に使える利点がある(農民は辛抱強く屈強である)。」『河内今昔事典』(冨田寅一著)

広い沼沢地の開拓に遠くから人を呼び寄せたことで、様々な生活様式を持った人々の社会ができたこと。豊かな情報をもった朝廷の智識、智慧を早く取り入れることができたこと。そして開拓や、軍役で辛抱と、命を懸ける習性が身についたことが想像されます。これがこの地域の人々の繁栄を支える礎になっているのだと思うと、なにか納得できる気がします。

見えない世界の進化・フォトンベルト

「不思議」という形容詞をつけて、見えない世界の話が続きました。ついでにとてもおもしろいというか、興味深い話を紹介します。

2008年発行の『内在神への道』(伊勢白山道著)で次のように書かれています。

「次の世には、幽界がなくなります。もうすでに始まっています。(中略)

この現実界に、神界、霊界、地獄界が重なってきます。磁石のように引き合う者どうしが、生きている人間全員に憑依してきます。法則はご自分の嗜好、行動、発言、魂に感応する存在が来ます。」

そして、すべての人が直接根源神につながるときが来ると言っています。不完全な霊に付かれたら苦しくてたまらないから完全な根源神を意識するようになるということでしょうか。

以前に恩智のキツネの話を紹介させていただきましたが、各地で、きりがないほどキツネに化かされた話があります。ただどこでも昭和の途中から、プツッとなくなるのです。急にきつねにその能力が亡くなった? あるいは人がだまされない力をもった? これに関して、私は銀河系の中にあるひときわエネルギーの高いドーナツ状の光の帯(フォトンベルト)に太陽系(当然地球も)が入ったためであろうと思っています。そこは振動数7.8ヘルツのα波です。

憑依が増えるということに関蓮があるのですが、私の友人知人をはじめ、多くの人たちが精神内科に通っています。投薬の影響か、すでに亡くなった方もおられます。そこまでいかなくても、肩こりや体の筋肉癒着が憑依霊のせいだという治療師もおられます。どこにも憑依霊はうじょうじょしていて、程度の差はあってもとりつかれない人はいないといっておられます。

1981年発行の『龍神が飛ぶ』(桐山靖雄著)では在家の方に「准胝(じゅんてい)尊千座行法」という成仏道を薦めておられます。准胝は梵名チュンディー(清浄の意味)を漢字にあてたので、聞きなれない言葉になっています。本尊とする仏様は「七倶胝仏母准胝(しちくていぶつもじゅんてい)」といって、一切の仏がこの仏から生まれたという意味を持ち、「根本仏」であるそうです。

1日一座必ず法を修して、これを千日千座重ねる(1日休むとまた1から)。このようにして自分に生じた法力を祖霊に転写する。このようにして成仏した祖霊に守護霊になってもらうことを薦めておられます。つく守護霊によって自分の運勢は大きくかわるので守護霊を前もって成仏させておこうという考えです。

この考えは少し違うように思われます。自分が根源神とつながることで霊格があがり、霊格が上がるとそれにふさわしい守護霊がつくようになるというのが本来の動きではないでしょうか。

伊勢白山道さんのいうようにこの現実界に、神界、霊界、地獄界が重なってくるなら、守護霊はこれまでのように人を守護することができるのでしょうか。α波は成仏を助けてくれますから、人、守護霊ともに霊格があがるでしょう。

どちらも直接根源神につながることを教えておられ、人々が神々を介さず直接根源神につながることのできる時代がくるようです。人間のレベルがようやくそこまで上がってきたということでしょうか。いや、何よりもフォトンベルトのエネルギーがそれを可能にしたのだと思われます。感謝です。

源平合戦800年後の不思議(3)

かつて源平合戦ほどドラマチックな戦いはなかったでしょう。それは源氏の東国武士特有の意識と頼朝、義経の仏教心に根ざした人間性の発現でもありました。そこから私たちは不思議な働きを学びましたが、新たに800年後の今に継がれた見えない世界の働きを教えられます。その検証をしていきます。

<怨霊が呪い殺す>  この発想は昔からあります。歴史を調べると、それが普通の発想だったと思われる時代もあります。いや、現在だけその発想が薄れているとも言えます。私が幼いころでも地元では呪術者によるお祓いが結構行われていました。

<4次元の守護神> 個人について守護する守護霊についてはよく聞いてきた話です。霊は3次元の存在ですから、ここでは4次元の存在がその役割をしているので、指導霊と呼ばずに指導神と呼んだのでしようか。

人の体の繊細で複雑なことがわかると、とても自分だけでは守りきれないので、何か助ける存在があるのだろうと想像することはできます。しかし、この事例でわかったのですが、指導霊や指導神は怨霊の働きから我々を事前にまもることはできないのですね。今回の例では正池さんはいったん絶命してしまっています。4次元の指導神だから命を復活させることができたのだと言っています。

また4次元というのは時間が自由に行き来できる世界をいうのだろうか。私たちの存在する世界は縦横高さの方向へは自由に動けるが、時間は一方方向で動いていて、私たちは時間を動くことはできない。過去には戻れないし、未来へも行けない。だからこの世は3次元と呼ばれているのでしょう。

<3次元の神体の助力> 3次元、4次元の神というのがそれぞれあるようです。3次元に4次元の存在が直接働きかけることはできないといっています。3次元は、私たちのように目に見える存在と目にみえない存在があるようです。目に見えない存在を霊とか、神と呼んでいますが、このような存在が私たちが気付かない間に私たちにかかわっているのですね。目に見える存在よりはるかに大きな影響を及ぼすこともあります。

正池さんを助けるためには、この存在の助力が不可欠だったと4次元の守護神は言っています。

<悪霊の消滅・怨霊の宥(なだ)め、絶滅> 物の怪、悪霊、怨霊というのは、3次元の見えない存在です。これらの存在が私たちに働きかけるということに関しては、認めない人もたくさんいます。天皇家はもちろん認める派であり、呪術は今も行われています。神武天皇は東征の際に常に祖先神を意識して守られていることに感謝をし、祠を建ててお祀りしました。神武天皇の長男は神社を全国に建てて、見えない世界とつながり、豪族もそれに見習いました。仏教が入ってくると、寺院を建て、祖先神だけではなく、宇宙の仏たちにも意識を合わせ、その助けを受けながら人民を守ってきたのです。災害、疫病など人の力の及ばないところを祈りによって見えない力の助けを得てきたのです。

見えない世界の悪霊の消滅・怨霊の宥め、絶滅は、人が直接できるものではありません。それらは神仏の力を借りて行ってきたのです。ここでも3次元の神の力を借りています。

<絶命の命の蘇生> 時間軸を自由に動けるなら、絶命前に戻せば蘇生できると思うのですが、そう単純ではないようです。3次元で行うような物質的な治療が行われたことが書かれています。また次元の機構の働きがあるので蘇生ができるのは、死後わずかな間だけのようです。

<4次元の無の機構> 「無の機構」とはどういう状態を指すのだろう。虹色の柱が見えているのに物が無い。光が物質に反射したものを感じている(五感の目)のではなく、五感以外のものが認識している存在の仕組みです。4次元に長く存在すると「無」になってしまって、3次元には戻れなくなるといっています。4次元世界には3次元世界にある物質を維持できる仕組みがないということなのでしょうか。

4次元には物質を維持しようという機構とそれを維持する大きなエネルギーがないので、3次元の人間にとっては正池さんがもう少しここにいたいと感じたエネルギーの居こご地のよい感覚があるのでしょうか。「4次元の無の機構」とは何も無いという意味ではなく、物質がない世界なので、物質を維持しようとするしくみがないという意味なのですね。そのために物質を維持しようと互いに緊張をもたらすエネルギーがないので居こごちがいいのかもしてません。

<3次元への返還> 3次元と4次元の時間経過について、兆の1万倍の京(ケイ)とか累乗とか表現しているが、3次元と4次元の間には、そのような時間差があるのか。だからわれわれの物質界では物質の維持に膨大なエネルギーが使われているので、残された微々たるエネルギーでは時間の移動が不可能だということなのか。それにもかかわらず、ほぼ正確にもどすことができたのは、無の世界ではそのような高いレベルのエネルギーと能力を有しているということです。物質的な関わりが不要になると、私たちには想像もできない能力を持つようになるのですね。

<4次元の守護神について> 「4次元の世界の守護神であるわたくしは完全な無の存在であるため、4次元の世界と3次元の世界の空間と時間を超越して調節する超能力を有しております。」と正池さんの守護神は言います。空間にも時間にも縛られないで自由に動ける力があるというのです。さらに、「貴方の肉魂に精霊を宿したまま蛇光神の精力を結集して、3次元の世界に貴方を戻します。」といいます。4次元の守護神も精霊を持っているのですね。

<3次元の守護神について> ここでは、「物の怪」という存在に関して、各物体が仮想するものと説明しています。この仮想する存在は、人についたり、妨げを与える怨霊などの存在を言っているようです。この物の怪の守護神と、その物の怪を支配する大神の守護神が3次元の守護神であるといいます。この存在ができることは、幽体として守護し、幽体から幽体へと循環輪廻する3次元のサイクルを円滑にする役割を果たします。生死の起点を左右することはできません。

 

 

 

 

 

源平合戦800年後の不思議(2)

正池さんを救った守護神の説明によると、ことのなりゆきは以下のようです。<>は、ブログ作成者のわたしが付け加えました。

「<怨霊が呪い殺す> 貴方の祖先が数多く犯した罪を貴方の世代になって報復してもらおうと陰惨に惨殺された数十体の昔の怨霊が、あの御堂の絵巻を媒介して貴方を呪い殺そうとしたのです。そして最後の仕上げも終わり、確かに貴方の命は生死の境を越えてしまっていました。言い換えれば、雨に濡れ風邪気味の貴方の弱みにつけ込み、あの忌まわしい現実の修羅場に直面させ同時に肺炎を併発させ命を断とうとしたのです。

<4次元の守護神> 怨霊の目的は一応達成しましたが、貴方にはあとで説明しますが、特に4次元の守護神すなわち私がついていたのです。このように3次元の物体に4次元の守護神がつくことはほとんどあり得ず、貴方が人間として誕生すると同時に私がついたことは説明は避けますが、特別な意味があったからです。(中略)

<3次元の神体の助力> 4次元の守護神自体直接に3次元のすべての物体に手を下す事は出来ず、そこで貴方のある祖先が特別にある御神体の奉祀永代子孫が奉っている神様があるため、その御神体の助力を受けることにしたのです。3次元の御神体は貴方の守護神であるわたくしに物の怪である神の使いの7匹の白蛇、つまり蛇光神を貸してくださいました。

<悪霊の消滅・怨霊の宥め、絶滅> わたくしは直ちにあなたを救い出すべく手段を命じたのです。まず貴方に直接禍をもたらした御堂の中にある媒介物の額縁の駆逐です。7匹の蛇光神である白蛇たちは精気をもって武者絵を舌で嘗め悪霊を根気よく打ち消して消滅させると、順次貴方に仇なしている張本人の怨霊どもを宥(なだ)めて懐柔し、あるいは強硬に打ち負かして絶滅せしめてしまいました。

<絶命の命の蘇生> ?しかしその時すでに遅く貴方の生命は絶命していましたので、最後の手段を蛇光神に命じました。貴方の生命を蘇生させるため守護神のわたくしが直接手を下せる4次元の無の世界へ搬入させたのです。その行いは刹那的行為ではあるが、蛇光神の白蛇の精にとっても貴方の守護神であるわたくしにとっても、言語に絶する至難な行為となり、わたくしどもが滅びる自殺行為とわかっていても、守護神であるわたくしが貴方を見殺しにするわけにはまいりません。

<4次元の無の機構> そしてついに貴方を4次元の世界へ搬入することに成功すると同時に何回も言うように守護神のわたくしは貴方の肉魂に宿り4次元の無の機構を一応抑えているのです。貴方を蘇生するのには大変苦労しました。

<蘇生> 身体の全細胞に刺激作用を起こさせる特別な電磁波を当社し、各細胞に息吹を復活させる原形質の流動作用を促し蘇生されるべき電撃処方を講じたことは、もちろんあらゆる飛躍と栄養剤を用い肉魂において、今現在、貴方は4次元の世界に3次元の世界の有姿状態のまま命を保ち続けているわけです。

<3次元への返還> 貴方を今3次元の世界にこのまま帰すとすると、光速の何億光年、つまり19XX年の3次元の現在の数値として存在しない何京年のX累乗年数を経過した3次元の世界に戻すことになりますので、当然貴方が人間として実在していた19XX年には存在し得ません。すなわち空間を超越して時間を逆方にコントロールさせる瞬間移動のため、肉魂すなわち幽体の若返り作用を起こし、たちまちあなたの身体は原型を留めず、崩壊して物体としては存在しえない現象を起こして気体となります。

<4次元の守護神について> 4次元の守護神であるわたくしは、完全な無の存在であるため、4次元の世界と3次元の世界の空間と時間を調節して調節する超能力を有しております。貴方の守護神であるわたくしは、貴方の肉塊に精霊を宿したまま蛇光神の勢力を結集して、3次元の世界に貴方を戻します。

<3次元の守護神について> では、3次元の世界に通常存在する守護神は各物体が仮想する物の怪の守護神とその物の怪を支配する大神の守護神のことを言いますが、その多くの守護神は残念ながら4次元の守護神とは違い、その物体を有体として保護し、有体から有体へと循環輪廻する3次元のサイクルを円滑にする節序を司る役目を果たし、生死の起点を左右することはできません。

<超能力の精霊> ただし、4次元の守護神が3次元の守護神に超能力の精霊を貸し与えた場合、または3次元の強力な大神などに属する守護神が、特別に4次元の守護神より超能力を借用していればある程度生物などの病気または生死の帰還起点の短縮及び延長もも可能となります。

前にも言ったように貴方を3次元の世界より4次元の世界に搬入する場合には、物の怪である蛇光神に4次元の世界の守護神のわたくしが乗り移り、貴方を搬入できたのであって、3次元の世界に戻す時も同様の手段を講じることになります。」『河童見参』(正池茂典著)

つまり、こういう事件があったということです。正池さんの祖先によって惨殺された数十体の昔の怨霊がいまになって御堂の絵巻を媒介して正池さんを呪い殺そうとした。正池さんは死ぬのですが正池さんについていた4次元の守護神に助けられた。そういうことです。

まず、4次元の守護神はこの事件を前もって防ぐことはできなかったのですね。3次元の守護神でも同じだったかもしれません。

いままでチャンスがなかったのか、防御の力が強かったために成功しなかったのか、今になって復讐の思いが達成されたということです。

守護神たちによって、絵についていた怨念は駆除され、怨霊たちは、宥められるか、消滅させられました。怨念というのは目に見えない存在として800年も衰えることなく存在できたのですね。それとは別の存在として、絵に悪霊がつくという事態もあるのですね。イヤな感じがする石や、物には悪霊がついている可能性もあるのですね。

わたしの友人が義理の父(考古学の権威)から相続した品々のうち、博物館が受け取ってくれなかったものを私にもらってくれないかといったのですが、いやなものを感じたので断りました。むりやりから頼むので、とくに問題のないものを一つだけいただきましたが、残った品物についた悪霊のためか、気のやさしい友人はその後精神異常を起こしてしまいました。高校の教員を辞めて、相続した莫大な財産で豊かに暮らしていたようですが、音信は途絶えました。

正池さんが体験されて紹介された見えない世界の働きを次回で検証していきます。

 

源平合戦800年後の不思議(1)

1185年の壇ノ浦の戦いから800年以上経っています。昭和27年の話です。正池茂典という人が『河童見参』(正池茂典著)の中に不思議な体験談を書いておられます。学校からの帰り道、大粒の雨が降ってきて神社の浮島にある御堂に飛び込んだ。濡れた衣服をぬいだ。そのうち、風でも引いたのか、頭が重く前進がだるくなった。

「次の瞬間、私は五感に何かを感じ、何かが起こりつつあることを察知すると、この場を逃げ出すために腰を上げて起き上がろうとしたが、身体を動かすにも不思議にも大きな重圧感のある見えない物体に押さえつけられ、手足さえも自由に動かせなくなっていた。(中略)

御堂は正面と裏側の入り口を除けば、周囲を腰板で囲ってあり、上部は吹き抜けとなっている。吹き抜け上の鴨居の桟には多分に剥げ落ちはしているものの、昔は極彩色であったであろう武者絵の額縁が周囲全面に掲げられ、はめ込まれていた。

多少不気味さを漂わせるこの武者絵は何者を描いているのかわからないが、鳥帽子や鎧兜に身を固め馬上で刀や薙刀を振りかざし、また弓を満月に張り切っている武者ありで、確か源平合戦の絵巻ではなかろうか。(中略)

ふと鴨居の額縁を見遣った瞬間、そこに何を見たか。それは現在今もって脳裏より脱することのできない武者たちの修羅場が展開されていたのである。(中略)

今そこには旗差物が舞い、鎧兜が鈍い光を添える。将が大声で吠え、騎馬が馳せ、雑兵が群れをなして、怒号が走る。矢が飛び交い光が旋回して火玉が走る。槍衾が繰り出され、砂塵が舞った。矢が、弓が、刀が折れ、兜が千切れる。そして頭を割られ首が飛ぶ。手足が切り落とされ、胴体を抉(えぐ)り、臓器が飛び出す。鮮血が飛び、断末魔の絶叫が走り、屍の上に死体を重ね、血の海は流流と流れ、凝固していったのである。(中略)

以上のように最大の罪悪の戦いも、言い換えれば勇壮果敢な戦いであり、私も何人かの戦士、いや武士となり、的を幾人も殺しまた敵に何回も殺されて何もかもわからなくなり、記憶を失って気絶したのか、あるいは現実の生死の境を彷徨っていたのか、現実の時間が経過していったのである。(中略)

微かに音楽が聞こえる。形容しがたいほど優しく綺麗で澄んだ音色は、人の心を抱擁し、心身を和ませる。」

ここで著者の正池さんは3次元から4次元に入ったのです。こんな話をすると、私たち昭和世代の人は信じられない人が多い。この体験談を作り話として片づけてしまいます。どちらかというと、私も、信じてもその世界の話はすべきでないと思ってきました。しかし、今若い人の中には新しい時代を迎えて、この類の話を普通のこととしてとらえられるようになりつつあります。私もこれからは、4次元の話は無視しきれるものではなく、積極的に体験し、理解し、上手くつきあっていかなければならないと思うようになりました。あえてこの不思議な世界を紹介させていただきます。

このあと正池さんは、守護霊からことのなりゆきの説明を受けて、ふたたび3次元に戻ってきます。次回でそのなりゆきを紹介します。

八尾市神宮寺・常世岐姫神社

八尾市神宮寺にある常世岐姫(とこよぎひめ)神社は高句麗系の染色技能者の祖神を祀ってあります。安産の神として地元の人がお祀りされています。いまは宮司不在の小さな社だけの神社ですが、867年には官社に列せられた格式高い神社だったそうです。

「神宮寺集落の入り口あたりに常世岐姫神社がある。通称八王子権現とも呼ばれ、延喜式の古社で、祭神は常世連氏の祖神である。この常世連は、『姓氏録』の「右京諸蕃上」および「河内国諸蕃」に関系として、『燕国の公孫渕の後なり』と記された渡来人である。公孫氏は、古朝鮮の漢4郡時代、楽浪郡の南(朝鮮の黄海道)にできた帯方郡の郡司となった一族で、漢四郡の滅亡後にその子孫が渡来したのであろう。従ってこの常世連氏も高麗系の漢人である。」『大坂における朝鮮文化』(段ひりん著)

隣の柏原市大県で染色が行われていたのは知っていますが、八尾市神宮寺にもその技術者が住んでいたのですね。いまはその面影は神社以外にはまったくありません。大県はすぐ近くですからありうる話です。江戸時代までは大和川がこちらに流れていましたから、そこを利用していたのでしょうね。大和川の付け替えまでは大県のように、なにか続くものがあったのでしょうか。

八王子神社からは毎年行事のときには美家古に注文をいただきます。「はっとさん」(八王子権現)と呼ばれて安産の神さんだという理解をしていました。常世岐姫(とこよぎひめ)という神社名は聞きなれないために覚えていません。後世にスサノオの御子神の八柱を祀るようになったために八王子神社と呼ばれて、それが安産の神につながったのでしょう。スサノオは神仏習合で牛頭天皇と同一視されて、牛頭天皇が后の頗梨采女(はりさいにょ)(八大竜王の一柱)との間に設けた8人の王子かつ眷属神を祀るようになったものと思われます。