月別アーカイブ: 2016年8月

ゾーン体験・霊操・ヨガ・座禅・瞑想

竜馬はあるときに亀山社中を解散せざるをえないと判断して、陸奥陽之助につぎのようにいった。

「『水夫火夫の賃金がはらえぬ。この先、払えるめども立たぬ』

『さすがの坂本さんも万策つきたとみえますな。私は天下に、こまらぬ男というのは長州の高杉晋作とわれわれの坂本竜馬だけだと思っていたが、これはちがったな』

『なんだ、そのこまらぬ男というのは』(中略)

『まるで雲に乗った孫悟空ですよ。雲から落ちて絶対絶命に立ちいたっても、ふたたび雲を呼んでまた三千世界を駆けめぐる。二千年来の英雄児ですな』(中略)

困った、といったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

『そうなれば窮地が死地になる。活路がみいだされなくなる』というのが高杉の考えだった。

『人間窮地におちいるのはよい。意外な方向に活路が見出せるからだ。しかし、死地におちいればそれでおしまいだ。だからおれは困ったの一言は吐かない』と、高杉は陸奥にもそう語っていたという。」『竜馬がゆく(7)』(司馬遼太郎著)

窮地や剣道などのように極地に立ったとき、人は知性を超えて霊性を呼び起こす。霊性が知性に働きかけることで意外な方向に活路が開ける。こういう体験をしている人でさえ、私の時代には、すべてを知性で乗り切ろうとしてきました。しかし、いよいよ、霊性が中心になる時代がきたとおもうのです。

いっぽう、「ゾーン」体験についてインタネットのウィキペディアを見てみましょう。

「ゾ-ン体験とは、スポーツ選手が、極度の集中状態にあり、他の嗜好や感情をわすれてしまうほど、競技に没頭しているような状態を体験する特殊な感情のことです。

単に調子がいい、とても集中している、というだけでなく、『心と体が完全に調和した無我の境地だった』『体が勝手に動き、苦痛を感じなかった』『試合をやっている自分を上空うから眺めていた』など、選手にとって『なにか特別なことがおこった』と感じさせるような感覚です。」

そしてゾーン体験に導くメンタルトレーニングを次のように紹介しています。まずレゾナンス(resonace)呼吸、すなわち同調です。そして、ヨガ・座禅・瞑想です。自分の心に生じるストレスから離れ、宇宙に同調します。これらは知性で教えることのできないもので、自分で体験するしかありません。先日紹介した「霊操」もそうです。

この「ゾーン体験」と竜馬の話がどう関係があるのだと言われそうですが、知性で行き詰るときに、それであきらめてしまえばたしかに行き詰まります。しかし、宇宙に同調して霊性が働けば意外な方向に活路が開けます。ヨガ・座禅・瞑想・ゾーン体験・霊操もすべて宇宙に同調するということです。

『竜馬がゆく(7)』(司馬遼太郎著)に次のようなことが書かれています。

幕府や藩にとらわれなくなった土佐藩の人が「私は地球の上にいますので」ということばを流行らせた。

いまその地球がひとつになって動いています。これからは、「私は宇宙の中にいますので」ということばになるでしょう。宇宙の創造主につながり、創造主と同調して生きることで、無上の喜びを味わうでしょう。

 

 

 

大飢饉・疫病(1181年)の克服とゾーン体験

引き続き、『日本生活文化史3・日本的生活の基点・平安・鎌倉』(編集委員代表武者小路穣)から紹介します。

「大火の被害がほぼおさまったころ、1181年から翌年にかけて、またまた都市の住人たちに大きな災厄が襲った。大飢饉である。日本は水田耕作が農業の中心であるから、少しひでりが続けばすぐに飢饉となる。しかも飢饉は農民ばかりでなく、農業生産から離れて暮らしている都市の住人たちにも重々しくのしかかってくる。ふたたび『方丈記』によってそのありさまをみよう。

1180年、ひでりや洪水などがあいつぎ、国々の民は自分の故郷を捨てて他郷にさまよい、都の人びとはありとあらゆる財物を食料に代えようとするが、ふりむく人もなかった。朝廷でもいろんな祈祷がおこなわれたりしたがききめはなかった。(中略)

あくる年、なんとか飢饉はおさまるかと思われたが、あまつさえそこに疫病が加わった。相当な身分にある人びとさえ家々をたずねて物を乞うた。また歩くかと思えば倒れ、ふれふしたかと思うともう死んでいる。路々に飢え死んだ人びとは数限りもなかった。それをとりかたづける人もなく、死臭に満ち、腐敗していった。

日常の生活に欠かせない薪さえつきてしまい、生活のなりゆかぬ人びとは自分の家を壊して薪に売った。市で売られた薪の中には赤く塗ったものや金箔のついたものなどもあって、寺社や貴族さえもがその建物を壊して売るというありさまであった。愛する妻や夫を持った人は、愛する人のことを考えて自分はろくに食もとらず、先に死んでいく。親子にしても、親は子に食をゆずって先に死んでいった。母の命がつきたのを知らずにひたすら母親の乳首を吸い続ける乳児も巷にみられた。」

死臭の蔓延する中で残されたわずかな乳を求めて息を引き取った母親の乳首を吸い続ける乳児を一人でも救うことができる人はいたのでしょうか。このような途方もない災厄を乗り越え、その後人びとは進歩を続けてきました。このような祖先をもつからこそ、私が親から聞いた、食べ物がなく、町が焼夷弾で壊滅状態にされた第二次世界大戦のときも夢中で乗り切ることができたのですね。人類はこのような苦難を乗り越えて確実に進歩してきたのです。

その時と比べものにもならない、いまの環境。天国と地獄の差があります。いまは、大火、飢饉や、疫病を克服する設備を調え、当時から見れば天国に見える豊かな生活を送っています。肉体的な環境に満たされた新しい人類の歴史は、これから、霊的に豊かな人類を目指して進もうとしているように思われます。肉体活動の頂点を極めると、そこには霊的活動があるのが、今回でのオリンピックでも感じました。スポーツでは「ゾーン体験」と呼ばれて、この高い霊的能力の世界を意識し始めています。4年後の東京オリンピックはこの「ゾーン体験」が当たり前になっているはずです。楽しみですね。

「ゾーン体験」については次回で取り上げます。

次郎焼亡・太郎焼亡(1177年・1178年)京都の大火

『日本生活文化史3・日本的生活の基点・平安・鎌倉』(編集委員代表武者小路穣)から紹介します。鴨長明が『方丈記』に書いたものです。

「この年の4月28日、その日は風がふき荒れて騒がしい夜であった。亥の刻というから夜の8時ごろ、樋口富小路ああたりの行路病者を収容する小屋から火がでて、折からの東南の風にあおられてまたたくまに日はひろがっていき、出火場所を起点として扇のかたちのように末広がりに地を這っていった。火から遠い家も煙にむせているようになり、近い家は直接に火をふきかけられた。空には灰を吹き立て、火災は強風によって1,2町ほども先に燃えうつっていく。人々は生きたここちもせず、ある人は煙にまかれて窒息してたおれ、ある人は火によって焼かれ死んでいった。着のみ着のままで日から逃げるのがやっとで、財物をとり出すひまもなく、被害は数えることができないほどである。(中略)

当時の都の居住地域のおよそ三分の一を消失し、男女の死者数千人以上、まして馬牛の類は限りもなく、多くの都市住人たちが家を失ったのである。(中略)国家の儀礼がおこなわれるもっとも重要な場所である大極殿が焼け、これ以降再建されることがなかったということは、古代律令国家の最終的衰亡をものがたるものとして著名な事実である。」

翌年またしても大火(この2つの大火は次郎焼亡・太郎焼亡と呼ばれた)がおこり、昨年の大火から免れた南半分が被災した。都市に住人の家が林立するようになってくると、一軒の火災は一軒でとどまらず、何の消化施設もない当時にあっては付近一帯に燃え広がります。

一瞬にして家、家財、家族を失ったこの地域の住民たちはどのようにして立ち直っていったのでしょう。火災は生活のための家財道具、衣料品、食料のすべてを失います。家族を失った者もいます。当時は保険もありません。助け合ってきた隣人も被災してしまっています。想像しがたいものがあります。

私も幼いころに家が全焼しました。戦後で保険にも入っていなかったので、文字通り、全ての財産を失いました。弟も焼死しました。「どろぼうと違って火災は全ての財産を奪い取る。あらゆる生活必需品から家族の命まで。」

私たち家族は親元に身をよせて、助けられて生きてこれたのですが、その親元や隣人まで被災すればどのような生きてゆく道があったのでしょう。地獄のような有様が目に浮かびます。

 

 

河内の歴史を書く姿勢

偕和會の故堀田和成さんの8月のカレンダーに、

「後ろを振り返ることのできない人は、流れる川面の木の葉に似て、いずれは水の底に沈むしかない。」とある。

人の歴史を振り返り、その体験から自分を振り返り、「いかに生きるべきか」を学んで、残された人生を無駄に生きることなく、充実させることに努める。好評であろうが、不評であろうが、そのようにその時代を生き抜いた人に拍手を送りたい。その礎の上に生きる自分は、感謝の心で自分の役割を果たしたい。

また歴史上の戦いでは勝ったものが正しく、負けたものは悪者というように決めつけられるのが歴史の常道だとわかりました。なるべく、そういう判断から自由になって、あるがままの姿を感得したい。敗者であろうが、勝者であろうがその与えられた立場で精いっぱい生きた人々を心から称えたい。その時代を支えた無名の人々にも触れたい。

いま、このような気持ちになっています。若い時に歴史を学ぼうとしなかった私がいま学び始めて、この年齢だからこそ見えるものを感じながら感動の心で書かせていただいています。

根源神・仏性・瞑想

私が出会った禅の修行者、中谷浄道さんは、禅も商売も同じであるということを証明するために100兆円という目標を立てられて、70兆円という財をなされた人です。握手を求められて手を差し出すと両手で私の手を包まれたのですが、柔らかいエネルギーの満ちた手でした。握手というより、包まれたという表現です。

私は今世では行ということは避けたいという考えをもっていましたから、どのようにしてそのようになられたのかという質問はしませんでしたが、いまその禅という概要を知ると、わかるような気がします。

『竜馬がいく4』(司馬廉太郎著)に次のような竜馬の言葉があります。

「人が事をなすには天の力を借りねばならぬ。天とは時勢じゃ。時運ともいうべきか。時勢、時運という馬に乗ってことを進めるときは、大事は一気呵成(かせい)になる。その天を洞察するのが、大事をなさんとする者の第一の心掛けじゃ。」千葉道場で北辰一刀流の極意を極めた竜馬は、天の動きを見ています。

霊操、禅、ヨーガ、剣道、商売もすべて同じだと思いました。体と霊と環境の中に仏性(根源神)を感じながら生きる(日常生活の中で瞑想する)と、大きなエネルギーをもらって気が充実し、役割を果たす道を与えられる。その道をその大きなエネルギーとともに歩むのが本来の人の姿だと思われます。これからの時代はそういう時代になっていくだろうという感触が高まりました。

 

霊操と禅・バガヴァット・ギータ

『霊操』の訳者、門脇佳吉さんは、『公案と聖書の身読』という本も書かれています。参禅体験から、霊操と禅がよく似ているというのです。

禅はインドに発祥したもので、サンスクリット語のディヤーナ(音写は禅那)。紀元前5世紀から紀元前2世紀くらいに編纂された『ヴァガヴァット・ギータ』の第6章ディヤーナ・ヨーガに次のように説明されている。

第2節 真の離欲とヨーガは同じもの―そしてヨーガとは至上者(かみ)と結合することである。ヴァーンドゥの息子よ、感覚を満足させたいという欲望を放棄しなければヨーギーにはなれない。

第3節 8段階のヨーガを始めた初心者は、行為(体による修行)することが方法であり、すでにヨーガの完成に達した人は、一切の物質的行為を止めるのが方法である。

8段階のヨーガとは、1.制戒(ヤマ):不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有の5戒  2.内制(ニヤマ) 3.座法(アーサナ) 4.総持(疑念、ダーラナ) 7.禅定(静慮) 8.三昧(等持、サマーディ)のこと。

第14節 体と頚(くび)と頭を一直線にたてて、鼻の先端をじっと見つめよ。心乱さず静かに和やかに恐れをなくし、性生活を完全に放棄し去って、ハートの中に住む”私”を瞑想せよ。”私”を生涯の究極目標とせよ。

ここで”私”とは至上主のこと。すなわち根源神。

第30節 森羅万象いかなるところにも私を見、私の中に森羅万象を見る人を私も必ず見ていて、彼は常に私と同行(とも)にある。

これらを見ると、根源神と結合するヨーガの修行の部分である禅が、キリストという根源神に結合する霊操と似ていて当たり前です。イエズス会の修練と禅の僧堂生活が似ていると門脇さんは書かれています。人に教えられてわかるものではなく、自分で体験して知る、いいかえれば、根源神による深い教えが得られるという世界です。

聖書を文字面で読むのではなく、身をもって体験しながら理解する読み方を門脇さんは「身読」と称して本の題名にされています。

 

 

『霊操』(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉訳・解説)(2)

『霊操』(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉役・解説)を読みながら要点を紹介します。

<総注・霊操を授ける人の心得>

第1・霊操の本質と目的の概要

霊操というのは、体操が体を調えるように、霊操は魂を調えるものです。邪な愛着を除き去り、根源神の御旨に従って生活することである。

第2・霊操の受け方・授け方

観相する人が歴史的出来事から真の礎をつかみ、自分で想いめぐらすことをさせる。指導者が説明するのではなく、自分が内的に深く感得し味わう。根源神とつながるとこのようになっていくので、その方向性を示したものです。

第3・霊操するときのいろいろな行為と態度

神と語る(祈る)言葉は、深い尊敬があるが、それには神の力が宿り、それがより深くなるように努める。心身全体を奮い立たせる気迫、気力で修行し、惜しみなく与え尽くす心で臨む。これも根源神と繋がるとそのエネルギーをいただいて自然とこのようになっていくので、その方向性を示したものです。

第4・霊操の順序とやりかた

1日1回1時間を5回、4週間(28日)行います。

第1部(第1週)・罪の考察と観相

第2部(第2週)・枝の主日までの主キリストの生涯(救済活動)

第3部(第3週)・キリストの御受難

第4部(第4週)・キリストの復活と昇天、祈り

期間は調節してもよいが、順序は神の救いの計画に基づくものであるから変えてはならない。

第5・霊操に入る人に要請される心構え

根源神が自分を至誠なるご意思のまま用いられるように、自分の好みと自由をすべて神に捧げる。

第6・霊動を受けない霊操者に対する処置

霊動を受けないのはやり方が間違っているからなので、よく聞いて忠実に実行するよう導く。

第7・荒みと誘惑に悩まされる霊動を受けない霊操者に対する態度

霊操を授ける人が荒みと誘惑に悩まされているのを見た時は、固くきびしい態度を取ることなく、キリストが弟子にしたように、むしろ優しく穏やかに対応し、今後のために勇気と力を与える。

総注は第20まであります。この後4週の実践を説明します。

<第1週 根源・礎>まずはじめは罪を意識し、地獄を観相する。そのような自分が助けられていることへの深い感謝をする。これが霊操能力を高める礎となる。

<第2週・キリストの生涯の観相>イエスの全生涯の私たちに対する呼びかけを観相する。それにどう応えていくか心からの感動を味わう。

<第3週・キリストの受難の観相と食事の制御>「われわれの貴婦人」が深い悲しみと疲労とともに味わわれた団長の思いを考察する。また弟子たちの寂しさをも考える。食事を通して自分を調えていく。

<第4週・復活を深く観相する>復活したキリストの栄光と歓喜に与り、すべてを委ね、「神のより大いなる栄光のために」働くものになる。

ざっとこのようなものです。あとは霊操者と霊草を授ける者のためにこまやかな注意がかかれていて、キリストの愛を感じます。イグナチオ・デ・ロヨラの時代から約500年。これからは、霊操のような行動が宗教信仰者だけでなく、普通の人たちが行うようになるだろうと感じています。アダム以来、人類は知に傾きすぎて、霊性を弱めてしまいましたが、いま、知性の限界を感じ始めた人類は宇宙の動きの中で霊的に大きな力をいただいて、根源神につながる強い霊性を取り戻すようになると思われます。

最近、河内にも、いずれそうなっていくだろうと感じられる強い霊性を持った若者を見かけるようになりました。

『霊操』(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉訳・解説)(1)

八尾市立図書館の近くを通ったので『霊操』(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉役・解説)を借りました。想像どおりの内容でした。

その解説の中に「日常生活の真只中で神を観相できる人への変貌」ということばがありましたが、この神は宇宙の創造神のことです。日本の古い時代では「かむながら」という生活がありました。これは「あらゆるものの中に神を見て(意識して)生活する」というものです。この場合は創造神というより、個々の神という意識があったのかもしれませんが、私はいまの時代に、その奥に宇宙を創造し、維持する根源の唯一神を意識して「かむながら」の生活をしています。

「根源神の意識の上に全ての生活をする」という意味の「かむながら」です。それが人本来の健全な生き方であるとわかっても、なかなか実行できないために、人は修行(禅・武道など)をします。しかし、現代人がこのような時間をとることが難しいということから、私は自分の体を見つめてその奥の根源神を意識する方法を与えられたのです。

私は昔、運転のときにハンドルを握りしめ、飛び出しがあればとっさに対応できるよう構えていましたが、少しの運転で疲れ切って居眠ってしまうような危険な運転でした。すべて理性に頼って感覚を働かせていました。もっとも下手くそな危険な運転だったと言えましょう。今は、全身全霊で周囲に意識を浸透させて環境とのつながりを感じながらハンドルに柔らかく手を置いています。いまは以前の様には疲れませんし、楽しい気持ちで運転できるようになりました。みなさんは始めからそれに近い運転をされているのではないでしょうか。私の場合は薬害による筋肉硬直(緊張の連続)がそのようにさせたのだと思っています。もっとも、それを治療する過程で、体と、それを創り、維持する存在との強いつながりができたのですが。

意識を自分の微々たる知性だけに合わせると、緊張の連続のエネルギー浪費生活になり、意識を根源神に合わせて生活すると、環境と一体化して、環境から多くのエネルギーを受けとっているのを感じます。書道が筆、紙と自分が一体化し、武道が武器と相手と自分とが一体化するように、本来の生活は、根源神を意識して環境と一体化して行うものなのでしょう。

その姿(生き様)になるための訓練方法としてつくられたのが、「霊操」です。聖書を根本においた4週間のプログラムでできています。めざすところは、すみやかに宇宙の根源神・キリストとともに日常生活が送れるようになることです。

恩地左近太郎記述「大楠公聞書」・霊性

恩地研究会の浅井守さんからお借りした、『大楠公処世の書』(日本文化研究会編)から紹介します。

楠正成から聞いたことを恩地左近が書きとめたものです。全体の内容は、「この時代の人にこれだけレベルの高いことがよく書けたものだ。」と浅井さんが感動されたように、精神レベルの非常に高いものです。その中でその霊性の高さを感じるところを選びました。

「夫(そ)れ天下を治(おさ)め、敵を滅)ぼすこと、全く戦いを以て得(う)べからず。常に柔(やわら)を以て敵を攻めよ。

柔とは心中の信を柔とするなり。凡(おおよ)そ人心は柔にして空(むな)し、しかも萬(ばん)法に通じ、色形なくして、而もこれを用(もち)ゆる?ときは、剛大(ごうだい)なり。石を砕(くだ)き金(かね)をとらかす。悉(ことごと)く此の空心の用にして、柔を以(もっ)て剛を制す。たとえば、鉄を以て石を砕くに、石損ずるときは、鉄も亦(また)損ず。心は是(こ)れ、柔かなるを以て損ずることなし。 」

「柔とは心中の信を柔とする」ということばに、心が宇宙のもとにつながり、その大きなエネルギーを得る高い霊性を感じます。枝葉に目をとられた浅い知性ではなく、根に意識を合わせた深い思慮を感じさせる知性があります。その時代のレベルの高い指導者を育てようとする教育係りの恩地左近が理解し、正成の子供の正行に教えたことが伺われます。

古来天皇家が持つ高い霊性を楠正成が持っていたのですね。後醍醐天皇との深い縁ができた本当の理由がわかりました。

「柔道」とは、美空ひばりの「柔(やわら)」という歌にも表されていますが、霊性の上に勝利がもたらせる武道の極致をいいます。極致といっても無心になって一生懸命行動すれば皆そこに行くというだけのことです。

恩地左近の末裔、恩地誠さんは、このような祖先からの素養があったので、霊性を上げるための「霊操」をされ、山口県萩カトリック教会の司祭になられたのですね。これから高い霊性の時代を迎えてきっと活躍されると期待します。「霊操」については近日中に紹介する予定です。

『龍馬がいく八』(司馬遼太郎著)幕末・明治維新・霊性

『龍馬がいく八』(司馬遼太郎著)を読んで、幕末・明治維新の根本がよく表現されたところを見つけました。

幕臣永井尚志と竜馬の対話です。

「『いま日本の武士に必要なのは』と、竜馬はいった。

『主家に忠義ではない。愛国ということです。…古来、武士は』

…主家あるを知って国家あるを知らなかった、と竜馬は説き続けた。忠義は知っているが、日本を愛することを知らない。日本六十余州のみが唯一の世界であったときはそれでよかったし、それでこそ世界に冠たる日本武士道は出来あがった。しかしいまやそれが邪魔になっている。

『赤穂浪士では日本国は救えませぬぞ』

外国がいる。

この島のまわりをぐるりと取りかこみ、隙あらば侵略し属邦化しようとしている。日本人が有史以来、はじめて国際社会のなかの自分というものを、否応なく発見させられたのが、こんにちの状態といえる。

『歴史がかわったのだ』

竜馬はいった。

『この前古未曽有の時代に、鎌倉時代や戦国時代の武士道でものを考えられてはたまらぬ。日本にとっていま最も有害なのは忠義ということであり、もっとも大事なのは愛国ということです』

『たれに遠慮もいらぬ君の立場なら、私もそういうだろう。しかし私は幕臣だ。頭でわかっても、情義としても実際の面ではそうはゆかぬ』

『やはり鎌倉武士で行きますか。』

竜馬は皮肉でなく言った。竜馬はこの永井尚志という人物の時勢への理解力がどれほどのものであるか、敬意をこめて知っている。

『鎌倉武士か』

永井は吐息をついた。

『場合によっては、そのように生きて行かねばならぬだろう』

『となれば、日本に内乱がおこる。日本はつぶれ去るかもしれませんな』」

この未曽有の時代の中でここまで冷静適格に判断できた竜馬に感動し驚かされます。永井尚志の理解も同じようなレベルでしょうが、幕臣という立場が行動を異にさせます。

特に意識することなく私の頭を通過していた「大政奉還」という手段が内乱を起こさず、日本国をつぶさないという優れた方法であったことがわかりました。竜馬という優れた指導者がこの時に存在したというのも日本を救う「神風」だったのでしょうか。きっと皇室でも真摯な祈りがおこなわれていたと思います。

『これだけは知っておきたい幕末・維新』(石坂太郎著)につぎのように書かれています。

「では、幕府が孝明天皇に政治参加を望んだのかと言えば、それは違う。古来日本の最高権威で、「神」である孝明天皇が祈祷を行ってくれれば、ペリー来航で動揺する日本国民が安心すると考えたのです。あくまで天皇を宗教的権威であると考えていました。」

震災のときに、現地に赴いて被災者と膝を近づけて言葉をかけられる天皇の霊性の高さはテレビを通してでも感じられます。いまは、天皇は日本の象徴ですが、その霊性の高さは日本人が古来より持つ能力といえましょう。戦後復興の中で霊性を無視した知性偏重の教育がなされ、大切な霊性をなくしかけているようです。しかし、これからは世界がその高い霊性を求めるでしょう。

一時は霊性が弱くなっても、武士道や、茶道など「道」がつくものは霊性の上に成り立っています。そのような環境にある日本人にとっては容易にその霊性は復活できると思います。

竜馬の時代は「忠義」から「愛国」であったようです。いまは世界がひとつの意識になって、人類(小宇宙と呼ばれる)を愛する時代と表現できます。そして、これからは、宇宙(’宇宙をつくり維持する存在)を愛する時代になるでしょう。