月別アーカイブ: 2016年11月

河内の古墳

先日、大阪府立近つ飛鳥博物館で行われた講演会に参加することができました。「古墳からみた6世紀の物部氏」という演題でした。驚いたのは、大きな前方後円墳でも誰の墓かわかっていないものや間違っていたものなどがたくさんあるということでした。

豪族でも時代の変化で力を失って先祖の墓参りや墓守もできないものが出るのだなあと改めて栄枯盛衰という言葉を噛みしめました。あの天皇家でさえ、いくつかの先祖の墓がわからなくなってしまったようです。

また、渡来系の豪族の集団のものと思われる小さな古墳群が八尾市千塚、柏原市高井田、南河内郡河南町などそれぞれ千をはるかに超える規模の古墳群があります。それを見ていると、恩智の現代の来迎寺墓地と数の上では同じような規模です。この来迎寺墓地でも全てが管理できていない状況ですから、豪族といえど、この規模の墓は管理不可能です。事実、誰のものかは全くわかっていません。

小さな古墳といっても、今の墓地から比べたら一つの墓が大きいので、墓地の面積は広大になりますが、人の利用しにくい山地ということで残されてきたのでしょう。西暦200年から600年ころにこうした大小の古墳がつくられました。大変な労力だったと思われます。

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この講演に先立って、近くの美しく賢明であったといわれる推古天皇磯長(しなが)山田陵にお参りさせていただきました。帰りにも寄りました。こじんまりとした山です。また来たいという気持ちです。

 

 

 

江戸時代・寺の梵鐘と時刻

親戚の辻野さんが毎月1回、近所の人たちに歴史や宇宙の話をしてくださっていますが、月に一度、90分、私も時間の都合がつく限り、話を聞かせていただいております。YOUTUBEなども見せながら、さまざまな道具を駆使した進んだ講義です。内容はかなりレベルの高いものです。

今月は江戸時代の時刻です。講義内容の一部を紹介します。

「江戸時代、私たちの時代とは違って、時計を持っているのは大名や豪商などだけでした。一般の人は寺の鳴らす鐘で時刻を知ったのです。

時の鐘の音はまず3つ打ちます。それから、刻(とき)の数を最初長く、徐々に詰めて打ったので、途中から聞いた人も今何時かが解ったのです。」

すごいですね。このようなしくみが人々の生活を支えていたのですね。いまもあれば私たちも、さらに便利だと思いますが、ただし騒音だという人に反対されるでしょうね。梵鐘の音は、人の心の浄化にもなったと思われます。

昔、「時そば」という落語がありましたが、十六文の蕎麦代を払うのに、さんざん蕎麦屋を褒め上げたあげく、「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、いま何刻(なんどき)だい。」「九つで」「十、十一、十二、十三、十四、十五、十六」と一文ごまかしてしまいます。これを見ていた男がさっそくまねをしようと、翌日、「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、いま何刻(なんどき)だい。」「四つで」「五つ、六つ、七つ、八つ…」と損をしてしまうというものです。

私は夜の時間の話を昼の時間でやったのだと思って、よっぽどバカな男の話だと思っていたら、そうでもないようです。この一文のごまかしがわかる男ですからそうではなかったのです。昼の時間に蕎麦を食べに来たのではなかったのです。

江戸時代の時刻は2時間おきに鐘を打ち、その鐘の数で時刻を教えていました。正午の2時間(11時から13時)は九つで、その後、八つ、七つと数が減っていき、20時から22時は四つで、23時から1時は再び九つから始まり八つ、七つと数が減っていきます。四つの次は九つなのです。

つまり、同じ時間に蕎麦を食べ始めていたのですが、この男は、あまりにもまずい蕎麦なので蕎麦屋を褒めることをしないで勘定をしてしまったものですから、九つにならない四つの間に蕎麦屋に時刻を聞いてしまいます。褒めて時間かせぎをしなかったために失敗した。これがこの落語の真相なのですが、この時代の時刻の数え方を知らなかった私はこの話を十分に楽しんではいませんでした。最近この落語を聞くことがなくなったのも、江戸時代の刻(とき)しくみを知らない私のような人ばかりになったからでしょうか。

森の成長を支える微生物と人類

『宇宙2宇宙人類の誕生』(NHK宇宙プロジェクト編)から紹介します。

「アンモニアはタンパク質のもとになる成分で、植物の成長には欠かせません。実はこのアンモニアをつくっているのは植物ではなく、土のなかにいる微生物なのです。シアノバクテリアという窒素固定細菌が、空気中の窒素を吸収してアンモニアにかえているのです。植物はそれを根から吸収しています。」

ツリーライン(森林限界)より上にいくと、土の温度が急激に下がるために、微生物が活動できなくなって、木が育たないのですね。土の中の微生物が木を育てる役割を果たしていたなんて知りませんでした。

私は昔よく「人の体は土でできている。」と言っていましたが、土を食べる草木やその実を食べた動物を人が食べるからです。もちろん人も草木やその実を食べます。それはもともとは地球の土です。作家の三浦綾子さんも自分のことを、「この土の器」と表現して小説の題名に使っています。土を直接食べている人もいるそうです。

こうして考えると、人は地球と完全に独立したものではなく、地球そのものの一部分なのです。地球や、地球によって生かされている他の存在と共に生かされているのです。さらに言えば、同様に、宇宙によって生かされ、宇宙そのものの一部であります。

これらを支えるものの一つに微生物がこのような形で活躍していることも分かりました。

絶壁頭は現代人の特徴?

『つい誰かに教えたくなる人類学63の大疑問』(日本人類学会教育普及委員会監修中山一大・市石博)にこんなことが書いてありました。絶壁頭で私のようにひけめを感じているあなたに朗報です。

「鎌倉時代の人と現代人では、頭の形に違いがあることが知られています。鎌倉人は頭の幅にくらべて前後が長い『長頭』、いわゆる『才槌頭(さいづちあたま)』の傾向がありますが、現代人は幅にくらべて前後が短い『短頭』、いわゆる『絶壁頭』のような形を示す傾向があります。」

進化した人間は「絶壁頭」なんですね。かっこよさより、機能優先なら「絶壁頭」も良し、ですね。

側頭葉は、言語、記憶、聴覚を担う部分ですから、コミュニケーション力の発達する必要が増してきたのでしょうか。わずか800年で頭の形まで変わるなんて、ヒトの進化はすごいですね。

住吉神社の祭神

住吉神社と恩智神社は神功皇后のときから、強い縁があります。この神社の祭神、筒之男神のことがよく分からなかったのですが、『毎日グラフ別冊・古代史を歩く7・河内』(編集長西山正)の中で吉田豊さんがかかれた記事を見て、納得できました。まずその記事を紹介します。

「黄泉の国からやっとの思いで逃げ帰ることのできた伊邪那伎命(いざなぎのみ

こと)は、筑紫の阿波岐原(あわきはら)で禊(みそぎ)を行う。瀬に入り、水ですすいだ後に、日本神話のなかでも最も重要な神々が誕生した。その神は、天照大神・月読神・須佐之男命の三神、表・中・底の棉津見神、そして同じく表・中・底の筒之男命すなわち住吉三神である。これが『記紀』神話に記された住吉神の出現譚である。また、記紀にはもう一カ所、筒之男神が登場する。神功皇后の朝鮮半島出兵記事である。筑紫から発信した軍船の守護神として活躍した筒之男神は、大和方面への帰路、穴門の山田邑(下関市)でその荒御魂を穴門氏にまつらせる。後の長門一之宮住吉神社である。またその和魂を津守氏にまつらせる。これが摂津の住吉大社である。

筒之男神とは、どんな神か。三神としてまつられるのはなぜか。諸説があるが、私は『つつ』を星の古名とし、筒之男三神をオリオン座の三つ星とする説に魅力を感じる。この星は、天の赤道に沿って、縦一文字に東から出て横一文字に西に沈む。その位置によって、方角や時刻、季節を知ることができたといわれる。」

太陽神である天照大神、月神である月読神、筒之男神が星の神であれば、納得します。ひとの力の及ばない宇宙から人を導き、護ってくれる存在の一つであったのですね。

人類の基礎を築いた祖先たち

『つい誰かに教えたくなる人類学の大疑問』(日本人類学会教育普及委員会監修))からさらに紹介します。

 

「約1万年前に最終氷期が終わり、地球は急速に温暖化しはじめました。その結果、日本列島の埴生に大きな変化がおこり、1万年前にはクリなどの堅果類を含む温帯の森林が成立したことがわかっています。またオオツノジカやステップバイソンなどを含む大型獣がいなくなりました。このような状況で、植物と魚類に依存した定住生活を特徴とする縄文文化がはじまったと考えられています。縄文時代の人びとは、周辺の環境によく適応していました。たとえば、北海道では海産物を中心とした食生活が発達し、本州では森林の資源と海洋の資源を組み合わせた食生活が発達しました。

本州の中でも西日本は照葉樹林が中心で、堅果類の生産量は多くありません。一方、東日本の落葉樹林では、照葉樹の堅果類よりも生産性の高いクリやドングリが多かったようです。このような東西の埴生の違いは、縄文時代に西日本より東日本に多くの人口が分布していた可能性を示唆します。(中略)

堅果類は秋に豊かに実りますが、主食としてほかの季節にも食べるためには貯蔵が必要です。また、生では食べられないので加熱調理をしなければなりません。そして、貯蔵や調理の為の土器や石皿などが出現しました。旧石器時代が終わり、縄文時代を特徴づける土器が現れるのはおよそ1万6000年前のことです。

縄文時代の日本列島では、クリのほかにクルミやフキ、ワラビなどもよく利用されました。たとえば、三内丸山遺跡の土に含まれている花粉の分析からは、クリが自然状態ではありえないほど密集していたことがわかっています。これらはいずれも明るい明けた場所でよく育つ植物です。有用植物を残すために、ヒトが伐採や野焼きによってそれ以外の植物を除去し、環境を改変していたと思われます。

また森は、調理や土器製作に必要な火を起こすための薪や、住居の建築材を得る場所となりました。ヒトにとっては、食料源としても役立つクリや生育の早い樹種などを中心とした森林が好都合です。実際に森林の樹種を人為的に操作しはじめ、その結果、二次林を生むことにつながりました。

縄文時代の後半の4500年前頃には、リョクトウやダイズなどの豆類やヒョウタン、アサ、エゴマ、シソ、ゴボウなどの外来植物も持ち込まれました。

やがて、2800年前頃に稲作がはじまり、水田が特徴的な風景となる弥生時代へ突入していくことになります。水田稲作がはじまると、耕作用に水をためるようになりました。そこには水場をすみかや繁殖の場とするカエル、メダカやドジョウなどの小魚、それを食べるサギやトキ、コウノトリなどの水鳥も多く暮らしたでしょう。稲作によって食糧が豊富になったことで人口も増え、このようなヒトの活動による環境の変化もいっそう進んだはずです。山裾に水田が広がり、雑木林の資源も利用する「里山」と呼ばれる景観が、かつては日本列島の各地で見られました。これは縄文時代の森林利用の伝統と弥生時代の水田稲作が融合したものと理解できるかもしれません。」

さらには、水田稲作を始めて、食料を安定して確保しました。ヒトは環境に働きかけて、環境を変えていったのですね。まず、食料を確保するために森林に手を加えて、伐採や野焼きをしたのですね。偉人と呼ばれた素晴らしい祖先の存在にも驚きましたが、いや、ヒトの祖先は誰もが素晴らしい。環境を変えてしまう能力をその当時から持っていたのですね。いや、与えられていたのですね。われわれを創造された存在。長い長い時間をかけて。その偉大な存在のために、どんなことをしても自分の役割だけは果たしておきたい。そういう気持ちになります。

 

変化する日本列島とヒト

すぐれた祖先たちのことを知ったら、こんどは初期の人類はどのようであったのだろうかと気になりました。

「7万年前から1万年前にかけて、地球は最終氷河期にあたり、日本列島にも寒冷地の動植物が生息していました。氷期には、蒸発した海水の一部が陸域で氷として固定されるので、海水量は減少します。最終氷期には、海水面が最大で120mも低下しました。その結果、日本列島はユーラシア大陸とつながったり、大型の動物が行き来できるていどに海峡が狭くなったりしたようです。

そして、日本列島に大陸由来の動物たちが生息しはじめたことが、化石の分布からわかっています。たとえば、現在の朝鮮半島のあたりを経由してオオツノジカやナウマンゾウなどの南方系の動物がわたってきて、ナウマンゾウは北海道東部まで進出したようです。また、樺太と北海道がつながり、津軽海峡も大きな川位の幅になっていたため、北方系の動物が現在の本州まで渡来していました。ヘラジカなどが現在の岐阜県のあたりまで分布を広げていたことや、マンモスが北海道に生息していたことがわかっています。

植物はどうだったのでしょうか。当時の地層から見つかる花粉の分析によって、北海道北部や東部では、寒帯の草原と針葉樹林がモザイク状に広がっていたことがわかっています。北海道の西部や古本州島東半部にかけては寒温帯針葉樹林、西南日本にかけては温帯針広混交林が優先していたようです。

では上述の環境で、ヒトはどのような暮らしを営んでいたのでしょうか。最終氷期の日本列島では、大部分の森林にはドングリなどの堅果類がなく、食用植物資源に乏しかったと予想されます。当時のヒトは、狩猟によって得られた食物を中心とした生活を送っていたのでしょう。ただし食べられていた動物の骨はほとんど見つかっていません。そのかわり、2万5000年前以降の遺跡からは、狩猟用の槍の一部と思われるナイフ形石器や、細石刃(骨角などの素材を並べてはめ込んだ石器)や、動物を捕えるためと思われる落とし穴が見つかっています。

最終氷期の後半になると、マンモスやナウマンゾウなどの長大型獣は日本列島から姿を消してしまいました。その要因として、寒冷期と温暖期交互に訪れる短期的な環境変動による、埴生の変動(餌場となる草原の喪失)の影響が大きかったと考えられています。超大型獣が消えてからは、シカやイノシシといった中型の動物が、日本列島に住むヒトの獲物となりました。」(『つい誰かに教えたくなる人類学の大疑問』(日本人類学会教育普及委員会監修))

石器時代のヒトは狩猟に頼って食料を得ていたのですね。共同作業をするヒトとの人間関係をうまく保つこと、狩猟の対象である動物の動作を知ることなどがヒトの関心の中心だったのでしょう。凶暴な動物から身を護るための気のバリアなどはどのくらい発達していたのでしょう。獲物を見つける気配の察知力はどうだったのでしょう。動物の食糧が手に入らなかったときは、堅果類が乏しかったとすれば、木の葉や根っこも食べたのでしょうか。腐葉土や、昆虫の糞などの混ざった土も食べたのでしょうか。寒冷期と温暖期交互に訪れる短期的な環境変動による、埴生の変動をどのようにして乗り切ったのでしょうか。

男女の交わりは子孫を残す根本であったことは大前提であったことは間違いありません。そこに生じる愛の心は、思いやりなど相手を助ける行動につながっていったでしょう。協力してくれるもう一人の人を大切にする気持ちは生活の根本であったでしょう。子孫を残すための子育ての愛は、もう一人のヒトに「自分が持っている上手な獲物を仕留める技術」を教える行動につながったでしょう。ヒトが生き延びるための力は、愛によって、ヒト社会を上手に築くことだったと思われます。

 

 

すぐれた祖先たち(イエス)

物質の体をもつ人類というものが宇宙の創造主にもっとも近い存在で、これからも加速的に創造主に似てくることが予測されます。創造主がなぜかそうしたいと考えられているように思います。

そのように思っていると、世界最大の宗教、キリスト教をつくったという偉大な人物、イエスを人類のひとりである人間の側面から見た歌に出会いました。

『NHK市民大学1987年4月―6月期・歴史の中のイエス像』(松永希久夫講師)より、ナザレ人イエスの生涯を歌った作者不詳の詩を紹介します。いま世界の三分の一ほどの人が信仰しているキリスト教はこのナザレ人イエスによって始まりました。

「たったひとつの生涯

世に知られぬ小さな村にユダヤ人を両親として生まれた一人の男がいた

母親は百姓女であった

彼は別のこれまた世に知られぬ小さな村で育っていった

かれは30になるまで大工の小屋で働いていた

それから旅回りの説教師となって3年をすごした

1冊の本も書かずきまった仕事場もなく自分の家もなかった

家族をもったことはなく大学にいったこともなかった

大きな町に足を踏み入れたことがなく自分の生まれた村から200マイル以上そとに出たことはなかった。

偉大な人物にはふつうはつきものの目をみはらせるようなことはなに一つやらなかった

人に見せる紹介状なぞなかったから自分を見てもらうことがただ一つのたよりであった

はだか一貫、もってうまれた力以外にこの世とのかかわりをもつものはなにもなかった

ほどなく世間は彼に敵対しはじめた

友人たちはみな逃げ去った

その一人は彼を裏切った

彼は敵の手に渡されまねごとの裁判に引きずり出された

彼は十字架に釘づけされ二人の盗人の間にたたされた

かれは死の寸前にあるとき処刑者たちは彼が地上でもっていた唯一の財産すなわち彼の上着を籤で引いていた

彼が死ぬとその死体は下されて借物の墓に横たえられた

ある友人のせめてのはなむけであった

長い十九の世紀が過ぎ去っていった

今日、彼は人類の中心であり前進する隊列の先頭にたっている

かつて進軍したすべての陸軍

かつて建設されたすべての海軍

かつて開催されたすべての会議

かつて統治したすべての王たち

これらをことごとく合わせて一つにしても人類の生活に与えた影響力においてあの孤独な生涯にとうてい及びもつかなかった

といってもけっして誤りではないだろう

たった一つの生涯…

(W/バークレー、柳生直行訳『希望と信頼に生きるーウィリアム・バークレーの一日一章』ヨルダン社より引用。ただし元来の英詩にもとづき一部翻訳を改めた)」

イエスの生涯については、

「ヨセフトマリヤという夫婦の子としてユダヤのベツヘルムに生まれ、その後、ガリラヤのナザレで大工の子として成長し、ヤコブ・ヨセフ・ユダ・シモンという4人の兄弟と、何人かの姉妹とともに生活していたということが書き残されています。大工であった父親は早く世を去ったようで、イエスも30歳ごろに家を出てバプテスマのヨハネのもとに走り、その後、ガリラヤを中心に彼独特の『神の国運動』を展開し、ほんの数年後には殺されてしまうというのが、その生涯の輪郭でありましょう。」と書いています。

創造主にもっとも近い心を持ったひとりの無名の人が、人の心の奥深いものにふれて、人を動かした。あるものは恐れて何の罪もないイエスを殺し、あるものは感動してイエスの心を人に伝えていった。そして地上の三分の一の人々がいまその心とともに生きている。宗教団体とくくってしまえばそれまでですが、人類という側面から見たとき、人類は人の心の奥深いもので繋がって生きているのだと感じました。

 

人類の並外れた能力

『脳の中の天使』(V・Sラマチャンドラ著山下篤子訳)より紹介します。

「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森の中で生き、競いあい、繁殖し、死ぬーそれで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、想像し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その眼を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。

いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ三ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問う事までできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳を含めて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集り、複雑な集合体ーあなたの脳ーを形成している。

その脳は、それを誕生させた星々について思いをめぐらせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆するみずからの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」

この中で、「重力と偶然によって」と書かれていますが、筆者は実際は「偶然」などありえないと思っているはずです。創造主がいたとしても、人類というのは、驚愕する存在だと思っているに違いないのです。「創造主に似せてつくられた」というこの存在、それが私たちです。人類の力がますます磨かれ、力を共有することで、いまの私たちには想像もできない世界を作り出すでしょう。

 

地球と人類の将来

『宇宙2・宇宙人類の誕生』(NHK「宇宙」プロジェクト・編)より紹介します。

<天体衝突>

「隕石などの小天体が地球に衝突する可能性は、直径200メートル以上のものに限っても、1万年に1回の確率で起こると計算されている。約6500万年前、恐竜を滅ぼしたといわれている小天体は直径10キロメートルほどだったとされている。(中略)

地球を頻繁に襲う小天体は生命の多くを絶滅させることで、わずかに残った種の新しい進化のきっかけになってきたが、次に起きる天体衝突で人類が生きのびる可能性は少ないだろう。衝突後に地球全体を襲うきびしい環境の変化に耐えられる生命は、微生物などの原始的なものになるとも考えられる。」

このように書かれています。果たしてそうでしょうか。私はこれまでの人類の進化を見て、いまの世の変わりようがすざましいものであることに気付きました。携帯電話、インタネット、ロボット。これらの進歩は、100年前の人たちに予測できたでしょうか。宇宙をつくった創造神が人類を神に近づけようと働いている様に思えてなりません。

いま太陽系が銀河系のフォトンベルトを2000年かけて通過しようとしています。この間に太陽系、もちろんそのなかの地球のエネルギー活動も活発になりますが、人類もその影響を大きく受けます。いまのすざましい変化が2000年も続けば想像を絶する変化となるでしょう。

天体を行き来する人類が天体とともに生きようとしている将来の姿が目に浮かぶのです。