月別アーカイブ: 2017年1月

大阪の誕生・大阪の歴史14(この1世紀10)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「大阪の町の誕生は、司馬良太郎氏がその著書『十六の話』の中で判りやすく書いておられるので、しばし引用させていただきます。

『すでに85歳の老人になっていた蓮如(著者注ー真宗本願寺中興の祖)が大阪(当時は小坂 尾坂、大阪ー共にオサカと発音ーなどと表記した。)の地にやってきたのは、かれ自身の文章によると明応5年(1496年)のことである。そのころはむろん、四天王寺をのぞくほかは草深い土地でありつづけた。地理的に詳しく云うと、ナマコ形のかたちで南北によこたわる洪積台地である。標高は10~25メートルで、南北の長さは12キロほどもあり、東西の幅は2~2.5キロメートルでしかない。この台地のはしに国立の寺である四天王寺がある。蓮如は四天王寺という既成の権威には遠慮をし、そのそばに寺を建てようとはしなかった。他の一方のはしである北端(今の大阪城の位置)にたてた。その北端のほうが高い。蓮如が坂を上って平坦な頂上にたどりつくと、石ころのめだつ丘で、ろくに畑もない。土地のものはこの高地のことを石山と呼んでいた。正規の地名としては摂津ノ国東成ノ郡の生玉ノ庄のうちの大坂(オサカ)と呼ばれていた。

大阪(大坂)という地名が日本史上はじめて文章にあらわれるのは、蓮如の文章である。広い地域をさす呼称ではなく、その一角を、たとえば走っても10分とかからない程度のちっぽけな地面にすぎなかった。それが後世、世界中に知れ渡る都市の名称になるとは、むろん蓮如も、想像していなかった。蓮如のたてた石山本願寺は、かれから二世あとの第十四世証如の大に大きく発展した。蓮如の時代にすでに門前町が形成されはじめていた。当時の言葉で都市計画のことを「町割り」と言ったが、蓮如は六人の番匠(大工の棟梁)に命じて、六つの町内をつくらせたといわれる。建物としては旅館が主であったであろう。蓮如の時代の永禄五年(1562)には、家々の戸数は二千軒を超えたと言われる。』

このようにして大阪は、はじめて町として生まれたのです。蓮如は『摂州東成郡生玉の庄内大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや…』とこの地を全国への布教の中心地としました。」

肉体が水なしでは生きられないように、魂(精神)は信仰を求めます。イワレヒコ(神武天皇)が浪速国・白肩津についたとき、嵐にあって梶がきかなくなります。なんとか陸地についたのがこの白肩津です。このとき、先祖神が護ってくれたおかげだと、祠をたてます。これが東大阪市横小路の梶無神社です。東征の途中で各地でこうした神社を立てて、先祖神を崇拝しました。仏教が入ってくるまで神社が見えない世界のよりどころでした。

仏教が入ってくると、仏教が人の心を養い、日本人の魂は古来の山岳修行にさらに精神的なみがきをかけていきました。大阪の地が四天王寺の建立で下地をつくり、近世の石山本願寺によって上町台地に誕生したということです。大坂という地が心身の基礎によって誕生した恵まれた土地であることが分かりました。

次回に続く

 

水と大阪・大阪の歴史13(この1世紀9)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「人の生活はまず水を求めることから始まります。太古の人たちは、身の守りやすい山の頂に住み始めたのではなく、水のある谷川沿いに住み始めました。農耕の発達で、生活の場を麓や平野部に移すと、水を引くことや、井戸を掘ることを考えました。時代とともに人口が増え、人々は狩猟や農耕だけではなく、夫々が生活を支えるために、資源のあるところや金の稼げるところに集まりだしました。やがて、水の全くない、不毛の地であるとしても、欲望を充たしてくれる所ならば、あらゆる手段を講じて水を得て、人は暮らしだします。

アメリカ西海岸、ロサンゼルスを例にとるのは、極端すぎるかもしれませんが、ゴールドラッシュに湧き、石油の採掘で人が集まり、人が人を読んで今日の大都市が膨れ上がりました。しかし、そこは芝生一枚めくれば砂漠の地で、下手に掘るものならコールタールが滲みだします。生活のためには、隣接するユタ州から莫大な金銭を費やして水は買うより仕方がないことなのです。

東京や、大阪も、一部を除くと似たり寄ったりのところがありました。幕府が開かれた江戸の町も、けっして水に恵まれたところばかりとはいえませんでした。むしろ関東ローム操の火山灰台地である方が多く、水利の弁は悪い土地であったといえます。それでも必然的に住まなければならない武士や役人、それを目当ての商人や職人、いわゆる「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」が集まりだして大都市になります。この人たちの生活の水を確保するために幕府は上水道を造りました。「玉川上水」「神田上水」がそれですが、木樋・石樋を巧みに利用して、飲料水を庶民の住むところまで配水していました。

時代劇に出てくる長屋の井戸は、じつは井戸ではなく上水の汲取口であったと言うことになりますが、汲み上げた水は、各自に水瓶に蓄えて使い、汲取口の管理は住人が交代で行っていたそうです。大阪の場合はちょっと違うようです。江戸のような、上水道が建設されたと言う話は聞いたことはなく、ただ大阪城惣構えの「太閤下水」と呼ばれる井路が掘られ、たいそう下水網が発達していました。これは大阪の町の成り初めが、上町台地の北端で、掘削さえすれば清水がわき、井戸や出水が多く、水に苦労のない町であったからだと推測されます。

しかし、後々に造成された船場や、西船場という下町では、地層の違いから井戸を掘っても「かなけ」と呼ばれる悪水しか湧かず、飲料水は買わなければならなかったのです。その水のほとんどは淀川の水であったといい、とても良質とは思えないものの、それでもそれが飲料水になり、井戸から汲んだ水は洗い物用にと、土間には二つの水瓶が並んでいて、大雨の後で川の水が濁ったりすると、夕陽丘あたりの出水に、水を求める人の行列ができたと聞きます。」

人の体にとってもっとも大切なもの、それは「水」です。水なしではどの生物もその体を維持することができません。その意味では縄文時代から人が住み着いた恩智の扇状地などは水に恵まれたところでした。その後、水を確保できる技術ができると、水に恵まれないないところにも人が住めるようになります。杉本さんはこのあたりのことをよく見ておられますね。

次回に続く