月別アーカイブ: 2017年1月

大阪の誕生・大阪の歴史14(この1世紀10)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「大阪の町の誕生は、司馬良太郎氏がその著書『十六の話』の中で判りやすく書いておられるので、しばし引用させていただきます。

『すでに85歳の老人になっていた蓮如(著者注ー真宗本願寺中興の祖)が大阪(当時は小坂 尾坂、大阪ー共にオサカと発音ーなどと表記した。)の地にやってきたのは、かれ自身の文章によると明応5年(1496年)のことである。そのころはむろん、四天王寺をのぞくほかは草深い土地でありつづけた。地理的に詳しく云うと、ナマコ形のかたちで南北によこたわる洪積台地である。標高は10~25メートルで、南北の長さは12キロほどもあり、東西の幅は2~2.5キロメートルでしかない。この台地のはしに国立の寺である四天王寺がある。蓮如は四天王寺という既成の権威には遠慮をし、そのそばに寺を建てようとはしなかった。他の一方のはしである北端(今の大阪城の位置)にたてた。その北端のほうが高い。蓮如が坂を上って平坦な頂上にたどりつくと、石ころのめだつ丘で、ろくに畑もない。土地のものはこの高地のことを石山と呼んでいた。正規の地名としては摂津ノ国東成ノ郡の生玉ノ庄のうちの大坂(オサカ)と呼ばれていた。

大阪(大坂)という地名が日本史上はじめて文章にあらわれるのは、蓮如の文章である。広い地域をさす呼称ではなく、その一角を、たとえば走っても10分とかからない程度のちっぽけな地面にすぎなかった。それが後世、世界中に知れ渡る都市の名称になるとは、むろん蓮如も、想像していなかった。蓮如のたてた石山本願寺は、かれから二世あとの第十四世証如の大に大きく発展した。蓮如の時代にすでに門前町が形成されはじめていた。当時の言葉で都市計画のことを「町割り」と言ったが、蓮如は六人の番匠(大工の棟梁)に命じて、六つの町内をつくらせたといわれる。建物としては旅館が主であったであろう。蓮如の時代の永禄五年(1562)には、家々の戸数は二千軒を超えたと言われる。』

このようにして大阪は、はじめて町として生まれたのです。蓮如は『摂州東成郡生玉の庄内大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや…』とこの地を全国への布教の中心地としました。」

肉体が水なしでは生きられないように、魂(精神)は信仰を求めます。イワレヒコ(神武天皇)が浪速国・白肩津についたとき、嵐にあって梶がきかなくなります。なんとか陸地についたのがこの白肩津です。このとき、先祖神が護ってくれたおかげだと、祠をたてます。これが東大阪市横小路の梶無神社です。東征の途中で各地でこうした神社を立てて、先祖神を崇拝しました。仏教が入ってくるまで神社が見えない世界のよりどころでした。

仏教が入ってくると、仏教が人の心を養い、日本人の魂は古来の山岳修行にさらに精神的なみがきをかけていきました。大阪の地が四天王寺の建立で下地をつくり、近世の石山本願寺によって上町台地に誕生したということです。大坂という地が心身の基礎によって誕生した恵まれた土地であることが分かりました。

次回に続く

 

水と大阪・大阪の歴史13(この1世紀9)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「人の生活はまず水を求めることから始まります。太古の人たちは、身の守りやすい山の頂に住み始めたのではなく、水のある谷川沿いに住み始めました。農耕の発達で、生活の場を麓や平野部に移すと、水を引くことや、井戸を掘ることを考えました。時代とともに人口が増え、人々は狩猟や農耕だけではなく、夫々が生活を支えるために、資源のあるところや金の稼げるところに集まりだしました。やがて、水の全くない、不毛の地であるとしても、欲望を充たしてくれる所ならば、あらゆる手段を講じて水を得て、人は暮らしだします。

アメリカ西海岸、ロサンゼルスを例にとるのは、極端すぎるかもしれませんが、ゴールドラッシュに湧き、石油の採掘で人が集まり、人が人を読んで今日の大都市が膨れ上がりました。しかし、そこは芝生一枚めくれば砂漠の地で、下手に掘るものならコールタールが滲みだします。生活のためには、隣接するユタ州から莫大な金銭を費やして水は買うより仕方がないことなのです。

東京や、大阪も、一部を除くと似たり寄ったりのところがありました。幕府が開かれた江戸の町も、けっして水に恵まれたところばかりとはいえませんでした。むしろ関東ローム操の火山灰台地である方が多く、水利の弁は悪い土地であったといえます。それでも必然的に住まなければならない武士や役人、それを目当ての商人や職人、いわゆる「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」が集まりだして大都市になります。この人たちの生活の水を確保するために幕府は上水道を造りました。「玉川上水」「神田上水」がそれですが、木樋・石樋を巧みに利用して、飲料水を庶民の住むところまで配水していました。

時代劇に出てくる長屋の井戸は、じつは井戸ではなく上水の汲取口であったと言うことになりますが、汲み上げた水は、各自に水瓶に蓄えて使い、汲取口の管理は住人が交代で行っていたそうです。大阪の場合はちょっと違うようです。江戸のような、上水道が建設されたと言う話は聞いたことはなく、ただ大阪城惣構えの「太閤下水」と呼ばれる井路が掘られ、たいそう下水網が発達していました。これは大阪の町の成り初めが、上町台地の北端で、掘削さえすれば清水がわき、井戸や出水が多く、水に苦労のない町であったからだと推測されます。

しかし、後々に造成された船場や、西船場という下町では、地層の違いから井戸を掘っても「かなけ」と呼ばれる悪水しか湧かず、飲料水は買わなければならなかったのです。その水のほとんどは淀川の水であったといい、とても良質とは思えないものの、それでもそれが飲料水になり、井戸から汲んだ水は洗い物用にと、土間には二つの水瓶が並んでいて、大雨の後で川の水が濁ったりすると、夕陽丘あたりの出水に、水を求める人の行列ができたと聞きます。」

人の体にとってもっとも大切なもの、それは「水」です。水なしではどの生物もその体を維持することができません。その意味では縄文時代から人が住み着いた恩智の扇状地などは水に恵まれたところでした。その後、水を確保できる技術ができると、水に恵まれないないところにも人が住めるようになります。杉本さんはこのあたりのことをよく見ておられますね。

次回に続く

第2次世界大戦後の庶民 大阪の歴史12(この1世紀8)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「終戦後、ようやくガスが終日使えるように戻ったのは、昭和27年(1952年)になってからです。この頃になると、電気事情も相次ぐ水力発電所の創業開始で好転していきましsた。唱和25年頃からはようやく物資も出回りだして、取り払われていた電車の座席も元通りに復活し、板張りの窓にもガラスが入りました。この戦争で失われていた文化を取り戻すために、日本中がまるで鬱憤を晴らすかのように勢いよく動き出したように思いました。

昭和29年NHK大阪でテレビ放送が始まりました。戦時中、中断されていた家庭電器の製造もかっぱつになり、30年には東芝が「電気自動炊飯器」を発売し、これがブームとなって33年には1年間だけで100万台を売り尽くして、なお不足であったといいます。

昭和35年(1960)埼玉県の草加団地にLPG(プロパンガス)の供給が試みられました。これが都市ガスの未敷設地域や、配管の困難な山間部でも、ガスの使用が可能なことを示すことになり、その後各地にLPG基地が設けられるようになります。このころが、この国において本当の台所の改革がはじまったといえるようです。

「釜」が売れなくなった金物屋と、家電メーカーとの間で物議をかもしたこともありました。薪炭が売れなくなって炭やは生業が立たず、廃業に追い込まれ、氷屋や、石油、プロパンガスという新しい燃料を扱う店に転換されていったようでした。」

杉本さんは80歳で私は70歳、10歳の差があります。私が小学校6年の時はもう社会人だったのです。見る目が全く違っています。地元のK炭屋さんはプロパンガスを扱っていて、父の店にも頻繁に取り換えに来ていました。私はそれが昔からあったように見ていました。

また、中学生の従兄が日本橋の電気屋街で部品を買って、趣味でラジオやテレビの組み立てをしていました。家が金網工業をしていて、このころは生産が間に合わないほどの盛況で子供のバイトでもかなりの小遣いになったようです。わたしも教えてもらって小学5年生のときに5球スーパーというラジオを組み立てて、家族で聞いていました。杉本さんの情報によると、テレビ放送が始まって4,5年目くらいの頃なのですね。親戚の市会議員宅にはすでに大きなテレビがカバーをかけて置かれていました。当初のテレビが金持ちのシンボルのようなものでした。

この地域でも徐々にテレビが購入されて私も最初は隣の家に見せてもらいに行きました。鞍馬天狗やプロレスが人気番組だったでしょうか。その頃に放送開始になったのですね。番組がどうして作られるのかなどという知識もなく、ただ夢中で見ていました。その頃の日本が急速な発展途上だったと知ると思い出も輝いてきます。父の店でも向かいの電気屋さんから新しいカラーのテレビができたからと持ち込まれてお客様のために購入することになったようです。近くに鋳物工場があり、地方から寮に工員さんたちが来ていて、仕事後の楽しみとして父の店でテレビを見て過ごしたようです。この頃のカラーというのは3色のガラスをかぶせたもので、中身は白黒テレビでした。

 

盧溝橋事件 第2次世界大戦下の庶民 大阪の歴史11(この1世紀7)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「しかし、昭和12年7月盧溝橋事件を発端に、日中両国が全面戦争に突入し、14年には第2次世界戦争が勃発、16年(1941)12月ついに日本は米英に対して宣戦を布告しますが、翌17年に、ミッドウエー起きの開戦で日本軍が敗北し、これが転機になって苦戦が続き、敗戦への道を歩むことになります。この間に、この国の生活文化が逆戻りする現象が起こりだしたのです。10年、20年遡るのではなく、ものによっては縄文の時代にさえ戻ったのでは、と思われるものもありました。

軍事のために、諸々の資源の需要が増すのに反し、敵対する諸外国の経済封鎖による影響で、輸入は激減し、資材不足から陸海の運輸力は衰え、民間に廻る物資は年を追うごとに枯渇し、終には既存の製品まで回収され、軍需品に転用される有様でした。

昭和14年(1939)石炭不足からガス受給調整令が出されました。昭和17年には、家庭用のガス供給が炊事時間以外はストップされ、その使用料も一軒毎に強制的に割り当てられて、それをオーバーすると供給停止の手段が執られたのです。兵器や軍事用の鉄類が不足しているため、銅像や、橋の欄干にかぎらず、ガスのコンロ迄徴収され、代わりに陶磁器製が支給される始末でした。

電力もわずかに発電されるものの、その多くは軍需産業に優先され、一般の家庭では四六時中停電が続き、夕食時でさえ明かりが灯らない日々が続くようになりました。信じられないことですが、電車でさえ朝夕の通勤時間が終われば動かず、一般人は切符を買う事すらできない時期もありました。

ローソクは手に入らず、ランプを灯す石油もなく、小皿に鯨油と灯心を入れて明かりを灯すという、戦国時代に戻ったような生活になり、ガスや電気の生活になれてきた都会でも、「へっつい」や「かんてき」が主役に戻ります。しかし、都会では薪炭が手に入らず、街から古材やゴミがなくなり、道端の馬糞でさえ燃料に代わる有様でした。当然、電気やガスだけの問題ではなく、衣食住、あらゆる場面で日本の文化が衰退し、逆戻りしていったのです。」

戦時中のこのような話は親から聞いていました。しかし、私の直接の体験ではないので子供に話したことはありません。ただ、ここ恩智の人々は山がすぐそばで燃料用の薪類には困らなかったようです。

「この国の生活文化が逆戻りする現象」「ものによっては縄文の時代にさえ戻った」という表現はおもしろいですね。そこまで戻った生活文化が戦後50年ぐらいで世界トップクラスまで進んだのもこの国ならでの快挙でしょう。私が特に注目するのは、他の急成長国と違って、逆戻りの時でもこの国が培ってきた、武士道などの「道」の精神に支えられ、急成長の時も「道」の精神に支えられてけっして浮き足立つことがなかったことです。これから急変しようとする世界をこの国がリードする気がします。

 

 

大正・昭和の庶の台所 大阪の歴史10(この1世紀6)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「薪は『へっついさん』とか『おくどさん』と呼ばれた竈(かまど)で炊きます。『へっつい』は、専門の職人が壁土を練り上げて造り、漆喰を塗り上げて仕上げたもので、5口、7口という大きなものもありましたが、煙突はなく内部は1窯ずつ区切った作りになっていて、『別火』からその名がついたようです。また、『おくど』は、窯の後ろから煙突口が出ており、それが直角に曲がっていて『曲突』ということからきたといいます。

豪商や豪農の家屋敷は別にして、都会の一般的な家作では、大小かかわらずその建坪の四分の一ほどは、粘土を打ち固めた『三和土(たたき)』と言う土間が占めていて、ここが日常『台所』として使う場所でありました。関東で言う裏長屋、関西の裏借家は、玄関の戸を開けたところがこの三和土で、『おくど』があり、『流し』、『水がめ』が置いてありました。ご飯を、おくどで炊いている間、おかずは、『かんてき(七りんともいう)』で煮たり焼いたりしました。勿論、商家や農家などの大人数のところは「へっつい」で御飯も、おかずも汁物も別々の火で並べて煮炊きしましたが、それでも焼き物は「囲炉裏」や「かんてき」を使いました。

「かんてき」では炭や練炭を燃料にします。炭や練炭は、火鉢に入れて暖房用にも使います。練炭は一酸化炭素を多く発生するので、密閉したところでは中毒を起こします。寒さのきびしい韓国ではオンドルという床暖房を使いますが、この燃料に練炭が多く使われ、密閉度の高い韓屋で、多くの中毒死がでました。日本でも「炬燵(こたつ)」の火種に「たどん」や「豆炭」がよく使われましたが、天井が高く比較的換気のよい建物のせいで、中毒死はあまり多くはきかれなかったようですが、アパートのような狭い部屋では危険なものでした。

電気も、調理用熱源としての研究は進められていて、大正時代にニクロム線による伝熱利用が可能になると、」「電熱器」に始まり、「電気炊飯器」も発案され出しました。昭和も10年頃になりますと、デパートには「文化流し」という氷冷蔵庫まで組み込まれた今でいうシステム・キッチンが陳列されるようにまでなりました。」

ニクロム線の電熱器など、もう長い間見たことがありませんが、ニクロム線が真っ赤になり、その上に鍋をかけるなど、一時それが一般的であった時代がありました。もうすっかり忘れていました。この100年は、わずかの間に大きな変化があった時代なのですね。

 

明治・大正・昭和の燃料 大阪の歴史9(この1世紀5)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「おおよそ『薪』(たきぎーまき)と表現し取引されるものには、太い木を割った『割り木』、太い枝を束ねた『真木(まき)』、小枝や雑木の『柴(しば)』、その他『木っ端』、『稲藁』がありました。大阪での『薪』は、地元の河内、摂津、和泉、紀州だけには頼れず、主産地とされたのは土佐で、この土佐産の薪は、大阪市場の60パーセントを占めたといいます。

炭もまた、一般的な炭のほかに、粉炭や、近世に入ってからは粉炭を酸性白土で固めた『炭団(たどん)』無煙石炭を加工した『豆炭』『練炭』が使われていました。京都でも上質な炭は、大阪の問屋を通じて入っていましたし、その大阪でも炭は日向(宮崎)産が多数を占めていたそうですが、地元にもいろいろブランド品があったようでした。河内横山白炭、和泉鍛冶炭(池田炭)、近江炭がそれで、蕪村の句にも

池田から炭くれし春の寒さかな

というのがあるくらいです。おそらく炭とは全く係ることのなくなった今時の人たちにとっても、『備長炭』の名はご存じのようですが、これは紀州熊野(和歌山県)産の良品で、原料にウバメ樫を使って焼いてあり、堅くて火持ちがよいと評判です。江戸時代に紀州田辺の産地問屋『備後屋長右衛門』が扱っていたことから、この名が付きました。

このように大消費地になるところほど産地から遠く、自足出来ずに買い付けに走ります。多くは船便で運ばれましたが、産地事情や天候によっても供給量が左右され、消費者を不安がらせることもありました。消費者が小売店から購入するのに単位がありました。炭は『1俵(藁で編んだ炭俵)』がその単位ですが、薪の場合は東京と大阪では単位が違ったそうです。東京では『一束(いっそく)』いくらであったのですが、大阪では20貫(1貫は3・75kg)がその単位であったのです。これは平均的な庶民1世帯が1か月で消費する量と言うことで、割合買いやすい量ではあったらしいのです。」

ここで紹介されているように、練炭、豆炭、炭団(たどん)というような粉炭や石炭を固めた燃料が50年ほど前には使われていました。こたつや火鉢など暖をとるのにも使われましたが、調理の火種にも利用されました。カンテキという土を塗り固めた調理器具がありましたが、中にその練炭を入れて火をつけるのですが、その上に網を載せて餅や、さんまなど焼きました。その焼いている最中のさんまを猫がかっさらっていったという話も聞きました。気密性のよい住宅が出来始めて、練炭などから出る一酸化炭素で中毒死する事件がたびたび起き始めて、まもなく練炭、炭団などの姿を見ることはなくなりました。40年ほど前に生まれた私の子供はこの存在を全く知りません。ほんの2、30年しか存在しなかったのですね。

次回に続く。

電気・ガス 大阪の歴史8(この1世紀4)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「このように広まりだした照明用としてのガスも、明るさ、経済性、安全性で、電気よりも優位にたつことはできず、まもなく衰退を余儀なくされます。ガス会社では、ガスを加熱調理用に主眼をおく方針に変換して、活路を開くことにし、一般家庭の炊事用としてガスの利用を普及すべく、薪 炭に対し「火の要心、無煤煙で清潔、手間を省ける、場所をとらない」「家庭の改良は、台所の改良」とPRに努めました。そsの結果、庶民のガス火力への関心と相まって、1923年(大正12年)におきた関東大震災が後押しし、炊事用へと利用目的が完全に逆転したのですが、電気ほどの普及率になるまでには、これからまだ50年も後になります。

それでは、当時の都市における、炊事用の火力は何に頼っていたのか、それをどのように調達していたのかをまとめてみます。もともとこの国では燃料の殆どは、草や木という植物資源に頼っていたのですが、これは石炭や石油とちがって、その生育は「水」と密接な関係があり、飲料水を不自由する処では、同じように不自由で、水以上に調達 供給には手間がかかりました。当然のように受給のバランスが必要になって、「薪・炭」は重要な物産として取引されるようになります。

大原女が頭上に薪を載せて「柴いりませんかぁ」と、京都の町を売り歩く姿が思い浮かぶように、京都では八瀬や大原や洛北の村から、牛車や人の背で運び込まれ、売り捌かれていましたが、早晩この程度では賄いきれず、丹波の村々に頼るようになります。」

私が子供のころ、今から50~60年ほど前、山に近い恩智では、子供たちが燃料に使われる薪や牛のえさに使われる草をとる手伝いをしていました。家によっては、30年くらい前まで、まだ2つから5つのかまどがついたへっついさんが入り口を入って客間へ上がる土間があり、その次のところにありました。風呂も長い間、マキで沸かしていました。山にマキとりにいくのが日常の仕事でした。

ガス化になるまで、家によっては半世紀くらいの差がありました。それでも、都市ガスのガス管が施設されるまではプロパンガスでした。いまでは昔からガスを使っていたかのようにすっかりガスのお世話になっていますが、便利なお風呂が開発されていく前に、まだ日常の手間が大変な薪のお世話になっていたのですね。また、へっついさんもすっかり消えてしまいましたが、電磁調理器などと電気を利用した便利な調理器を配備した台所まで現れて、私などは自分用の食事には、電子レンジがかかせません。変化の加速度は年々早くなって戸惑いも出るくらいです。1世紀というと、私の親まで含めるとそれに近くなりますが、見聞きした時代なのですね。私よりひとまわり上の杉本さんが残してくださったこの話はぜひ子供たちに伝えたいものです。

電気もガスも共に100年ほどの歴史ですが、ようやくこのところ、順調な安定軌道を走りだしていました。しかし、震災を期に原子炉の見直しがあり、さらにいま、自由化によってせっかく築いたドル箱も今後はきびしい競争が予想されています。

次回に続く。

 

 

資本主義の基礎・発展時代 大阪の歴史7(この1世紀3)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「眼を台所のほうに向けます。1904年、この年に初めて大阪の町にガスが供給されました。と、申してみても、これはほとんど照明のためのもので、しかもこの出来事は、東京よりも20年も遅れてのことです。しかし、それには理由がありました。同じころの1882年、大阪には東京に先駆けて電燈が点いています。

JR大正駅を南に600メートルも行ったところに、大正区三軒家公園があり、その南隅に「近代紡績工業発祥の地」の碑が残ります。ここに『大阪紡績会社』(後の東洋紡)が設立され、31320錘という当時にしては途轍もない近代工業が操業を始め、天井には日本初の白熱灯が煌々と点り12時間交代、24時間操業が行われたのでした。

その翌年に『大阪電燈会社』が開業し、その2年後の1889年5月に、大阪市内(現、中央区、西区、北区の一部)の家庭に送電されるようになりました。

電気は電燈を点すことが、その目的として始まったのですが、ガスもまた、明かりを点すことから始まったのでした。明かりを灯すことが、東京・横浜ではガスで始まり、大阪では電気から始まったということになります。東京ガス会社が設立されて、10年も経ってからの契約口数が発表されています、灯火用が37000口に対し、燃料用が4000口です、人口に比してその契約数の少なさもさることながら、いかに燃料としての使用が少なかったことがわかりますが、当時の燃料としての主役は、まだまだ「薪・炭」であったのです。」

文章中、「錘」とは糸を紡ぐ道具です。18世紀の後半、イギリスに起こった産業革命はドイツ、フランス、アメリカ合衆国へと伝わり、、日本にも、それも当時は大阪にこのような企業が起ったのですね。一方、この時点では日本の一般社会はまだまだ旧体制からぬけきれなかったようです。

いまの資本主義の基礎ができて農業社会から産業社会に変わっていくことになりました。実に輝かしい時代になっていくのですが、いま、その資本主義も世界中で行き詰っています。もはや物質的なものの奪い合いの時代は過ぎ去ろうとしています。精神的なものは奪っても奪ってもいくらでも得ることができます。したがって、精神的な世界では奪うことに悦びが感じられません。与えて、与えて与えることが悦びになります。

次回に続く。

中之島図書館・中之島公会堂・新淀川 大阪の歴史6(この1世紀2)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「文化的にも、同じ年の2月、住友家の家長であった住友吉左衛門氏の寄贈によって、いまもなお、その重厚な姿と、機能を果たしながらも、国の重要文化財として保存されている、『大阪府立中之島図書館』が落成しました。

その東側、ネオ・ルネサンス様式の赤レンガの『中の島公会堂』は、少し遅れて1918年10月に完成したもので、北浜の風雲児と呼ばれた一代の相場師、岩本栄之助氏が時の金で100万円(今なら50億)を、大阪市に寄贈して建てられたのです。第1次世界大戦後の株相場高騰に、強気で売りまくった岩本氏は、致命的な敗北を喫し公会堂の完成を待たず、1916年10月

この秋をまたで散りゆく紅葉かな

の辞世の句を残し今橋2丁目の自宅で自害し、この世を去ったという謂れがあります。

物言わぬ父は長柄の人柱 鳥も鳴かずば撃たれはしない

と故事を詠まれたように、悲劇を繰り返しながら、西成郡を湾曲して流れていた中津川を矯正し、新淀川を掘削開設する工事が、旧淀川(大川)分岐点に設けられた「毛馬の閘門」の完成を待ち、2年後の1909年に完工式を上げました。」

いまは大企業のトップもも自社の収益追求だけに明け暮れしていますが、この時代には自ら個人の利益よりも、大阪の住民のためにつくした人たちがいたのですね。おかげさまで私たち子孫は大阪で豊かな生活をさせていただいています。ありがとうございます。

次回に続く。

日露戦争・与謝野晶子 大阪の歴史5(この1世紀1)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「1世紀、百年前の日本そして大阪はどのような時代であったのでしょう。旗艦『三笠』のマストに翻るZ旗は皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。と、日本海に展開する艦隊に指令する狼煙でした。そのとき私たちのくには、ロシアとの戦い(日露戦争)の真只中でした。日本軍は、ロシアが占領している中国東北部に進攻するために、どうしても避けて通ることのできない遼東半島の先端、旅順の要塞を包囲し、陥落しようと総攻撃をかけますが、成果は上がらず。

第1回総攻撃の1904年8月9日、日本軍は15,860人の戦死者を出し、2回目の10月26日にはには、3,830人、ついに3回目は、あの203高地で16,935人もの戦死者を出しました。大阪の第4師団にも動員令が下り、歩兵第8連隊、第37連隊の戦士が築港を出発して往きました。

一方で、東郷平八郎率いる連合艦隊は、世界の最強艦隊と評判の、ロシアの誇る『バルチック艦隊』と戦い、1905年5月27日、攻撃を仕掛け終戦に導く働きをしました。

あヽをとうとよ、君を泣く

君死に給うことなかれ、

末に生まれし君なればおやのなさけはまさりしも、

おやは刃をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの

旧家をほこるあるじにて親の名を継ぐ君なれば

君しにたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとも、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきては無かりけり。(略)

後に反戦歌だの、厭戦歌だのと言われたこの歌も、1904年に堺の老舗の娘与謝野晶子によって作られました。

世界の列強国の並ばんと『富国強兵』は叫ばれていましたが、軍国主義と呼ぶにはまだ遠い時代でもあり、中世武士道的な、唇かみしめてのつつしみや、偽善的なつくろいもなく、心の高ぶりをそのまま赤裸々に表現することのできた時代でもありました。」

私も与謝野晶子のこの歌は学校で習いました。このころはまだ、こんな歌がつくれるような社会情勢だったのですね。私は、第2次世界大戦後に生まれたというのに、この歌を聞いて、国が一丸となって戦っているときに、よくこんな不謹慎な歌を詠めたものだと受け止めました。戦後ですらそんな気持ちになるほど、日露戦争から第二次世界大戦までの間に、日本国民の心情は変えられてしまったのですね。

私の母は93歳になるのに戦争に反対した共産党のことを、いまだに「赤」とよんで罪悪人扱いしています。洗脳というのは恐ろしいことです。しかし、このような人々もほとんどなくなってしまって、いまは、平和が当たり前だと感じる人ばかりです。しかし、平和を守るために戦争をしなければならないという矛盾を解決できなければ、ふたたび、戦争の時代がくる可能性があります。目に映る目先の物質だけで思考するような教育しかできないようでは本当の平和は実現されることはありません。

次回に続く。