月別アーカイブ: 2017年1月

大坂夏の陣 大阪の歴史3(船場2)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「その後の慶長20年、大坂夏の陣によって、この町は灰塵に化しました。徳川家康は、すぐに新しい城主として、孫で伊勢亀山城主の松平忠明を送り込み城下の復興再建を進めました。

やがて松平忠明は大和郡山に移り、大坂は幕府の直轄になって旗本2名が町奉行に、伏見城代内藤信正が大阪城代となって、大番2組100名を引く連れ移ってきました。伏見城は廃城となり、その城下住民も大坂に移ってくることになります。

一連の幕府の動きは、畿内、西国支配の拠点を大坂に定めたことであり、新しい大坂が始まったことを意味し、それに伴い元和5年から、城下の拡張が始まりました。船場周辺では農地を町屋敷に転換させられて村々が消滅しました。津村、阿波座村、上難波村、三つ寺村、西高津村、等がそれで、また敷津村のそのあとに生まれたのが、南船場、島之内、西船場です。

中でも西船場と呼ばれた新町、立売堀、阿波座、靱、京町堀、江戸堀は西横堀から木津川にむかって縦横に彫られた堀川で、水の都の様を呈しました。後に「八百八橋」と呼ばれた景観はこの辺りが中心でしたが、昭和30年頃に水害から街を守るとかで、その殆んどが埋められて、その残影さえ見出すことができなくなりました。

これらの町は、いずれも大坂城下に組み込まれ、のちに天満と堀江が加わって大坂三郷が出来上がり、、明治の時代に大阪市となりました。

「船場のいとはん・こいさん」等と使われる「船場」は、初めに造られた下町地域を言うのが正しいようです。」

文章中、「慶長20年」は、1615年です。

次回に続く。

 

 

慶長大地震 大阪の歴史2(船場1)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「慶長元年大地震が起こり、伏見城が崩壊し城中で死者500人、諸大名の家々も崩壊して無数の死者を出しました。秀吉は伏見の大名屋敷を、大坂に移住させるために三の丸の建設を計画し、それまで城下にいた町民たちを立ち退かす、『大坂町中屋敷替え』を号令します。住んでいた町民たちの家は、2~3日のうちに自分たちの手で取り壊し、基盤の目に区画された新しい土地に移ります。

新しい家屋は、ヒノキ材を使い、軒の高さは皆同じにするようにも定められていました。この新しく開発された市街地が「船場」と呼ばれるところで、すでに朝鮮貿易などが行われて町並みが形成されていた道修町あたりから南へ久宝寺町まで、東西は東横堀(阪神高速道路環状南行き)から西横堀(同北行き)迄として、新しく城下町に編入されます。この下町にたいして台地に広がる城内は上町と呼ばれるようになります。」

文章中、慶長元年は1596年です。

次回に続く

 

大阪の歴史1(蓮如・秀吉)

 

 

八尾市恩智の同じ町会に住んでおられる杉本吉徳さんが、私が仕事の合間に、河内の歴史を紹介しているのを知って、1冊の著書を年末に届けてくださいました。

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著)です。年末年始の忙しさが少し落ち着いて、一昨日中を見るとレシピだけではなく、大阪の歴史も書かれているではありませんか。それも学者風ではなく、庶民の読者の目線です。私のブログの読者のためにほとんど加筆する必要もありません。驚いて、電話で紹介許可を講うと、そのために届けたのだから、自由に紹介してくださいという返事をいただきました。

ほとんどストレートに順次紹介させていただきたいと思います。まず、大阪の歴史の紹介からです。

「大阪が語られるとき、「船場」という地名がよくでてきます。船場は、大阪でどの辺りを指し、どのような成り立ちであったのか、知るところを話してみます。

大阪の町が産声をあげたのは、蓮如が石山本願寺の建立を始めたときで、それまでは難波の大地の北はずれ、小坂・尾坂と呼ばれた小石まじりの小高い丘でしかなかったのです。石山本願寺のための門前町が出来ましたが、信長との戦乱で焼け落ち、天正11年、豊臣秀吉が本願寺のあとに大阪城を築城し、城を中心に惣構えを築きます。

北を大川(旧淀川)から南は空堀(中央区谷町6丁目辺り)まで、東は猫間川(環状線京橋~森ノ宮)とし、西に横堀川を掘削して構え、その内側を城下としたのです。これが秀吉の大坂で、後々に発展していく大阪の核になりました。」

次回に続く

ヤマト政権と古代豪族(公共事業と渡来技術)

年末年始の多忙の中で古代豪族の話が中断してしまいましたが、ひきついで紹介します。

「蝦夷以降の蘇我氏がその権勢を保持しえたのは、天皇家との姻戚関係のみによるものでないことが明らかであろう。では、蘇我氏の行ったいったい何事がその強大な権勢をもたらしていたのであろうか。それが、仏法に付随する外来の文化や技術を身につけた渡来人集団を組織編成して、天皇家が必要とする公的な建造物などを造営する事業を企画・主宰することだった。

中略

皇極は入鹿に全幅の信頼をおいており、彼の功労を賞して蘇我氏の母をもつ古人大兄皇子の即位を承認していた。だが、皇極の同母弟、軽皇子(孝徳天皇)と彼を支援する蘇我倉山田石川麻呂が結託して古人大兄の王位就任を阻止するために武力にふみ切る。この乙巳の変によって、蝦夷・入鹿は足元を掬われ、実にあっけなく蘇我氏本家は滅亡する。

政変を機に皇極から王権を委譲された孝徳は、今後蘇我氏に代わって仏法を主宰することを宣言、それまで蘇我氏中心で行われてきた公共事業を天皇が直接掌握することになるのである。結局蘇我氏は王位継承をめぐる権力闘争に敗れ、累代にわたる公共事業の主宰権を天皇家にとりあげられてしまったといえよう。」(『古代豪族』・「蘇我氏」の出自は渡来人なのか」遠山美都男執筆)

古代の天皇家は秦の始皇帝以来の中国皇帝の姿をめざしていたのでしょうか。何が天皇家にそのような意識を与えたのでしょうか。古代の天皇家と豪族の間には意識のスケール差を感じます。

 

八尾市・恩智神社の子を産む石?

元旦に子供たちの家族が集まった席に、母が臨席して、孫に「子を産む石を抱いた兎」を寄贈した話をしました。私は。亡き父から聞いていましたが、子供に話したことはありません。

石は恩智神社の上にあった天川山春日部神社から持ってきたもので、石が成長して子を産むというのです。石など不変のものと思っていた私は驚いて、そんな石があったのか、どういう種類の石だろうと興味を持ったのですが、そのまま忘れていました。

宮司さんに、その兎に父母の名前を入れようといわれてお断りしたら、そのかわりに礼状をいただいて、その礼状が先日出てきたといいます。92歳の母は、1か月まえにころんで圧迫骨折を3か所もしてようやく数日前に退院したばかりなのに、いつ見つけたのだろうと思いながら聞いていました。

4段もコルセットをして、坐っているのが心配でしたが母はその話だけをして、ベットに戻りました。

本殿で祈祷を受けたときに、本殿に祀られたその兎を子供たちと確認してきました。亡き父から宮司さんが神社の宝にしたいとおっしゃったと聞いていましたが、これは神様が、「変わらないように見えても宇宙のすべてのものが変化している」ということを教えてくださったのかなと受け取りました。

でも、「子を産む石」なんて縁起がいいですね。宝にしたい気持ちがわかります。そういえば、世間では神社離れをしているというのに、恩智神社は四六時中、祈祷の絶え間がなく、境内は参拝の人で埋め尽くされています。やはり、恩智神社は縁起のよい神社と言えますね。

(恩智神社主祭神は大御食津彦と大御食津姫ですが、その使いの神が兎である話を以前に書かせていただきました。)